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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio SASAME
鉄錆の邂逅

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見捨てられた側

不時着した軍人が目を覚ます。灰域の集落で、二つの世界が初めて交差する。

消毒液の匂いが、狭い診療所に充満していた。

 アルコールと煮沸した布の匂い。その奥に、微かに鉄錆の気配がある。灰域(アッシュランド)のどこにいても、鉄の匂いからは逃れられない。

 カイ・セヴァルは、壁に背を預けて腕を組んでいた。クレア・アシュバーンの診療所は、廃墟のコンクリート壁を仕切っただけの小さな部屋だ。天井が低く、窓は一つ。旧世界のガラスが嵌まっているが、左下の角が割れて布で塞いである。


 寝台の上で、女が目を開けた。

 深い紺色の瞳が、天井を見つめている。数秒の空白。それから、視線がゆっくりと動いた。天井の罅割れ、壁の染み、窓の外の灰色の空。見知らぬ場所を確認するように、目だけが忙しく動く。


「動くな。肋骨にひびが入ってる」


 クレアの声が飛んだ。丸眼鏡の奥の目は厳しいが、手つきは丁寧だった。包帯を替えながら、負傷者の脈を取る。左手の薬指と小指が不自然に曲がっているのが、カイの位置からも見えた。

 女が口を開いた。声は掠れている。


「ここは……どこ」

「ラストヘイム」


 カイが答えた。短く、それだけ。

 女の目が、初めてカイを捉えた。灰色の瞳と紺色の瞳が交差する。女の視線には、混乱と警戒が同居していた。


灰域(アッシュランド)の集落だ。お前は鉄殻(てっかく)ごと不時着して、俺が引きずり出した」


 女は起き上がろうとした。クレアが肩を押し戻す。


「だから動くなと言ってるだろう。腕の骨折もまだ固定したばかりだ。動けば治るものも治らない」


 女はクレアの手を振り払おうとして、痛みに顔を歪めた。右腕が包帯で固定されている。額の裂傷には縫合の糸が光っていた。


「……私の機体は」

「外にある。壊れてるが、形は残ってる」


 女の表情が僅かに緩んだ。機体が無事だと知って安堵したのか。だがすぐに、目が鋭くなった。


「なぜ助けた」


 沈黙が落ちた。消毒液の匂いの中で、窓の外から子供の声が聞こえる。鉄屑を蹴って遊んでいる音。日常の音だった。


「統治機構体の兵士だからって、死なせていい理由にはならないだろ」


 カイの声は平坦だった。怒りも同情もない。ただ事実を述べただけの声。

 女はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。口元が動いて、何か言いかけて、やめた。


 * * *


 廊下に出ると、ゲオルグ・ハートが壁に寄りかかっていた。白髪を短く刈り上げた68歳の大男は、懐中時計を掌で包むように持っている。右頬の火傷痕が、午後の薄い光に照らされていた。


「起きたか」

「ああ。セルヴィスの軍人だ」

「知っとる。ロイドから聞いた」


 ゲオルグは懐中時計をポケットに戻した。


「客人として扱え。敵だろうと味方だろうと、ラストヘイムに助けを求めてきた人間を追い出したことはない」


 カイは頷いた。ゲオルグの言葉に反論はない。この集落はそうやって30年やってきた。行き場のない人間を受け入れ、分け合って生きてきた。灰域(アッシュランド)に流れ着く人間に、善人も悪人もない。生き延びようとしている人間がいるだけだ。


 だが、ガルド・ヴェッセンは別の顔をしていた。

 診療所の外壁に背を預け、赤葉(レッドリーフ)の煙草に火をつけている。辛い煙が風に散った。暗い茶色の目が、窓越しに診療所の中を見ている。


「セルヴィスの人間を匿えば面倒なことになる」


 ガルドの声は低かった。いつもの飄々とした調子が消えている。


「分かってる」

「分かってない。あの機体は銘殻(めいかく)だ。セルヴィスが放っておくわけがない」


 カイは黙った。ガルドの言うことは正しい。あの鉄殻(てっかく)の精度は、灰域(アッシュランド)のどの残殻(ざんかく)とも桁が違った。コックピットをこじ開けた時に見た計器の配列、装甲の厚み、関節の滑らかさ。あれを失って黙っている組織はない。


「……それでも、見捨てる気にはなれない」


 ガルドは煙を吐き、何も言わなかった。赤葉(レッドリーフ)の火が、風に揺れていた。


 * * *


 夕方、カイは診療所に食事を運んだ。

 灰域(アッシュランド)パンと、ドライベッド・シチューの椀。乾燥豆と干し肉と根菜を煮込んだ集落の夕食だ。塩が強い。ゲオルグの好みがそのまま味になっている。

 女はベッドに半身を起こしていた。左手だけでパンを千切り、口に運ぶ。咀嚼する顔に、一瞬、何かが過った。


「……温かい」


 小さな声だった。独り言に近い。カイは椀を寝台の横に置き、壁際に戻った。


「セルヴィスの軍用糧食は、紙を噛んでるようだって聞いたことがある」

「……誰に」

「ガルドに。灰域(アッシュランド)の飯のほうが百倍マシだと」


 女は黙ってシチューを啜った。左手だけでは椀が安定しない。カイは手を貸そうとして、やめた。あの目は、助けを求めていない。


「私はセルヴィスの軍人だ。あなたたちを『見捨てた側』の人間だ」


 女の声は硬かった。自分に言い聞かせるような口調。


「それは知ってる」


 カイの答えは短い。


「なのに、なぜ普通に接する」

「お前が何者だろうと、怪我人は怪我人だ。ここではそうする」


 女は椀を膝の上に置き、窓の外を見た。

 夕暮れの集落が見える。子供たちが鉄屑の間を走り回っている。老婆が廃材で何かを編んでいる。男が壊れた壁に板を打ちつけている。砲撃の傷跡を塞いでいるのだ。

 灰域(アッシュランド)は「無秩序な荒野」だと教わった。危険な無法地帯。統治機構体の管理が及ばない、人の暮らしが成り立たない場所。

 窓の外にあるのは、そうではなかった。

 壊れたものを直し、足りないものを分け合い、子供を育てている人々がいる。セルヴィスの教育で見せられた映像とは、何もかもが違う。


「……あなたの名前は」


 女が振り向いた。紺色の目が、カイを見ている。


「カイ・セヴァル」

「……そう」


 女はそれだけ言って、窓の外に視線を戻した。自分の名前は言わなかった。

 カイも聞かなかった。まだ、その距離ではない。

銘殻――特定の操手向けに設計・調整された一品物の高性能鉄殻。量産されず、1機ごとに設計思想が異なる。整備には専属の技匠が必要。

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