父の机
戦闘の後の夜は、静かすぎた。
リオンはストーンクロスの壁の上に座り、灰域の夜空を見上げていた。雲が切れ、星が散っている。冬の星座が低い位置で輝いている。息が白い。壁の石が冷たく、座っていると体温が奪われていく。
父のことを考えていた。
* * *
幼い頃の記憶。
ケネスの書斎に忍び込んだ夜。父はまだ帰宅しておらず、書斎の扉の鍵がかかっていなかった。リオンは7歳だった。
書斎は暗い木目の家具で統一された部屋だった。壁には額装された地図が掛けられている。机の上には報告書の束と、広げられた大判の地図。その地図に、赤い印がつけられていた。
灰域。
赤いマーカーで塗りつぶされた広大な領域。ストーンクロスもアイアンウェルも、その赤い範囲の中にあった。
「ここは何」
ケネスが書斎に戻ってきた時、リオンは地図を指差して聞いた。
ケネスは一瞬驚いた顔をし、それから椅子に座ってリオンを膝の上に乗せた。
「秩序の外にある場所だ」
大きな手がリオンの頭を撫でた。
「いつか、あそこも秩序の中に入れる。そうすれば、あの場所の人間も安全に暮らせるようになる」
幼いリオンは、父が正しいと思った。
父は大きくて、強くて、難しい言葉を使い、大勢の人間を率いている。父が言うなら正しいのだ。
* * *
今はどうだ。
リオンは壁の上で膝を抱えた。
「秩序の中に入れる」。ケネスの言葉は、翻訳すれば「灰域の秩序を壊し、セルヴィスの秩序で上書きする」ということだ。あの地図の赤い印は、「浄化対象」の印だった。7歳の自分は、父が何を計画しているか理解できなかった。
灰域に来て、カイやバートンや集落の人々を見た。
「秩序の外」にいる人々は、自分たちの秩序を持っていた。壁を築き、市場を開き、見張りを立て、子供を育てている。不完全で脆くて、セルヴィスの管区に比べれば圧倒的に貧しい。だがそこには人の暮らしがある。
父が「秩序に入れる」と言ったのは、「壊す」と同じ意味だった。
壁の階段から足音が聞こえた。
カイが上がってきた。手に二つのカップを持っている。中身は雑穀の煮汁だ。コーヒーの代わりに灰域で飲まれているもの。
「眠れないのか」
カイが隣に座り、カップを一つ差し出した。リオンは受け取った。温かい。
「あなたにとって、セルヴィスは何」
突然の問いに、カイは少し考えた。煮汁を一口飲み、吐く息が白く広がった。
「知らない。でもお前は、セルヴィスから来た」
「それは答えになっていない」
「お前自身が答えだろ」
リオンは黙った。
自分自身が答え。セルヴィスで生まれ、セルヴィスで育ち、セルヴィスの教育を受けた。その自分が灰域にいて、灰域を守ろうとしている。セルヴィスの全てが間違っていたわけではない。だがセルヴィスの全てが正しかったわけでもない。
自分の手を見た。
灰域の砂埃と、残殻のグリスで汚れた手。軍人の手ではない。ただの人間の手だ。
「私は、もう戻れないかもしれない」
その言葉は、恐怖ではなかった。
決意だった。




