追撃隊
リオンは通信機の前に座っていた。
ストーンクロスの通信室は、旧世界の事務所を改修した小さな部屋だ。壁にタリアが組み上げた中継装置が据えられ、ケーブルが蜘蛛の巣みたいに天井を這っている。机の上には、タリアが使い込んだ工具と、解読途中の紙片が無造作に散らばっていた。窓の外では、雪が降り続けている。受信を待つあいだ、装置の小さなランプが、ゆっくりと点滅していた。
暗号通信の受信音が鳴った。
短い、規則的な電子音。セルヴィスの軍用暗号だ。灰域では傍受されにくい周波数帯を、アイリスはわざわざ選んで使っている。リオンは冷えた指でキーを入力し、音声を復号した。慣れた手順のはずなのに、今は1つ1つの操作が、敵に背を向けているような後ろめたさを連れてくる。これはもう、私のいた側の通信ではない。
聞き慣れた声が、雑音越しに押し出された。
「リオン。アイリスです」
声を絞っている。近くに、誰かいるのだ。
「追撃隊がストーンクロス方面に向かっています。指揮はダリオ・メイス。コルヴァスの最古参です」
「ダリオ・メイス」
その名前なら、報告書の隅で何度も見た。遊肢を2基ぶら下げて、派手な勝ち方は1度もしない男。地味に削って、気づけば詰んでいる。私が現場にいた頃から、その評価は変わっていない。1番、相手にしたくない型だ。
「リーヴは」
「本隊と共に後方にいます。ダリオは先鋒。目的はあなたの確保と、灰域抵抗勢力の偵察です。……気をつけて」
最後の1言だけ、暗号の調子から外れて素の声だった。
通信が切れた。雑音だけが残り、それもすぐに止んだ。
リオンは椅子の背に体を預け、天井を見上げた。剥き出しのケーブルの影が、揺れる灯りで微かに動いている。
脱走兵の確保。それが名目だ。
けれど名目の裏で起きているのは、もっと単純なことだった。私がここにいる。だからセルヴィスはここへ来る。雪に埋もれたこの集落が標的になったのは、私の足がここで止まっているからだ。
その事実を、頭ではとうに整理していた。整理していたはずなのに、胸の奥で何かがざらつく。いっそ、と思う。いっそ1人でここを出ていけば、この人たちは巻き込まずに済むのか。それとも、それは私が楽になりたいだけの言い訳なのか。考えれば考えるほど、答えが遠ざかっていく。
選択肢は、頭の中で2つに割れていた。
1つは、自分がストーンクロスを離れて、ダリオを引きつけること。追撃隊の目標が私1人なら、集落は無傷で済むかもしれない。もう1つは、ここに残って迎え撃つこと。だが残れば、ストーンクロスはセルヴィスの正規軍を相手に戦うことになる。残殻と寄せ集めの傭兵で、遊肢2基の鋳脈者を。
軍にいた頃なら、迷わず前者を選んだ。被害を最小にする。それが定石だ。けれど、と思う。本当にそうか。私が出ていけば、セルヴィスはこの集落を「脱走兵を匿った場所」として、結局は浄化しに来るのではないか。
冷静に考えているつもりで、どこかで答えはもう出ている気がした。出ているのに、それを認めるのが怖い。認めれば、また誰かを巻き込むことになるからだ。
* * *
通信室を出て、冷えた廊下を歩いた。
石壁から染み出す寒さが、外套越しに肌を刺す。フォートレスなら、廊下にも暖房が通っていた。ここでは、建物の中にいても息が白い。半月前まで当たり前だったものが、もうずいぶん遠い。慣れた、と思っていた。慣れたつもりでいただけかもしれない。
バートンの執務室に向かった。
バートンとカイが地図を広げていた。リオンが入ると、2人の視線が同時に上がる。
「アイリスから通信があった。追撃隊の指揮はダリオ・メイス。遊肢2基の鋳脈者。コルヴァスの最古参」
リオンは地図に目を落とした。東の街道、橋の落ちた渡河点、雪に埋もれた旧道。敵がどこから来て、どこで足を止めるか。軍にいた頃の癖で、勝手に進路を引いてしまう。ダリオなら無理はしない。橋のない渡河点は避けて、確実な旧道を選ぶはずだ。だとすれば、到達まであと2日。
「コルヴァスか。厄介だな」
バートンが地図の上に指を置いた。指の先は、リオンが頭の中で引いた進路と、ほとんど重なっていた。
「私がストーンクロスを離れれば、追撃隊の目標は私1人になる。集落に手は出さないはずだ」
言ってから、自分の声の冷たさが耳に残った。命を勘定する時の、あの作戦会議の声だ。こんな時でも抜けない。
カイが口を開いた。
「逃げるな」
短い言葉だった。地図から顔も上げずに、カイは続けた。
「一緒に戦え。お前が1人で走っても、セルヴィスはストーンクロスを見逃さない。お前がいなくなったら、次は集落そのものを浄化しに来る」
リオンはカイを見た。さっき自分が1人で行き着いて、認めるのが怖かった答えを、この少年は迷いもせず口にした。
「根拠は」
「勘だ」
勘で作戦を決めるな――喉まで出かかった言葉が、行き場をなくした。カイの目が、据わっていた。冗談や当てずっぽうで人にものを言う目ではない。それ以上は、読めなかった。読もうとして、踏み込めなかった、と言ったほうが正しい。
バートンが頷いた。
「お前が離れても状況は変わらん。戦力は1人でも多い方がいい」
リオンは黙った。
窓の外で、雪が音もなく積もっていく。フォートレスにいた頃、こんなふうに何かを誰かと決めたことが、あっただろうか。あそこでは命令があり、序列があり、決断はいつも上から降ってきた。自分で選ぶということを、私はどれだけしてきただろう。
数秒の沈黙の後、小さく頷いた。喉の奥に、まだ言い足りない何かが残っている。それを飲み込んで、別の言葉を出した。
「残る。だが、ポラリスはセルヴィスに置いてきた。今の私には機体がない」
カイが肩をすくめた。
「機体なら何とかする。トワの予備機がある」
「トワの」
「ああ。あいつが昔乗ってた残殻だ。今は格納庫の隅で埃をかぶってる。整備すれば動く。ガルドが見てくれるってさ」
簡単に言う。だが、機体を1機用意するというのは、灰域では簡単なことではないはずだ。部品も、燃料も、技匠の手も、すべてが足りないこの土地で。それを、迷う様子もなく差し出してくる。
「灰域の残殻に乗れと」
声に、思っていたより棘が出た。元セルヴィスの専属操手が、寄せ集めの鉄屑に乗る。その絵面に、まだ体が追いついていない。
「残殻でも銘殻でも、乗る人間が同じなら同じだろ」
出かかった反論を、リオンは奥歯で噛んで潰した。
同じなわけがない。銘殻は、息を吸うだけで鋼の四肢が連動する。リオンの神経の延長みたいに動いた。残殻には、あの一体感がない。計器の半分は死んでいるだろうし、関節は遊びだらけで、踏み込んでも1拍遅れて足が出る。
なのに、と思う。ポラリスを置いてきたのは私自身だ。セルヴィスを捨てると決めたのも、私だ。それなのに、掌に操縦桿の熱がまだ残っている気がして、いつまでも剥がれない。あの機体は、たぶんもう誰か別の操手の手に渡っている。私のために調整された座席も、私の癖に合わせた応答曲線も、全部、上書きされていくのだろう。
リオンは目を閉じ、短く息を吐いた。
選り好みのできる立場じゃない。それでも、しばらく目を開けられなかった。




