フォートレスの朝食
残殻のコックピットは、芯から冷え切っていた。
リオンは操縦席に座り、計器の表示を一つずつ確かめていく。トワが「使えるはずだ」と言って譲ってくれた、古い予備機だ。右腕の装甲は別の機体から移植されたもので、左膝のアクチュエータが、操縦桿を倒すたびに鈍く軋んだ。ポラリスなら、起動音だけで今日の機嫌が分かった。この機体は、リオンに何も教えてくれない。パネルの半分は最初から消えていて、生きている計器も、表示が霞んで読みにくい。それでも、ガルドが一晩かけて動くところまで整えてくれたのだ。文句を言える筋合いではなかった。
息を吐くと、白い靄がコックピットの中に広がって、そしてすぐに消えた。
手袋越しでも、指先の感覚が、もう遠い。ポラリスの座席は、乗り込めば数分で体温に追いついてくれた。それを、わざわざ覚えてもいなかった。
操縦桿の遊びを確かめる。倒してから機体が反応するまでに、わずかな間がある。ポラリスには、なかった間だ。指の動きと機体の動きのあいだに隙間があると、それだけで体の芯が落ち着かない。慣れるしかない。明日にはダリオの部隊が来る。それまでに、この鉄屑を自分の手足にしておかなければ、生き残れない。
ペダルを踏み込んでみる。右が少し重い。左右で踏み代が違うのは、移植された脚部の規格が揃っていないからだろう。シートの位置も、リオンの体格には合っていない。背もたれと腰の間に拳一つぶんの隙間がある。ガルドに言えば直してくれるだろうが、今夜はもう、あの男も眠っているはずだ。
頭では分かっている。それでも、手が覚えているのは、別の機体の感触だった。何度握り直しても、指がポラリスのグリップを探してしまう。
目を閉じる。瞼の裏に、嫌になるくらい鮮明な朝が浮かんだ。忘れたいのに、こういう時に限って、いちばん幸せだった頃の景色がやってくる。
* * *
フォートレスの朝は、靴音が返ってくる。
亀裂のない歩道は、踵の音をまっすぐ跳ね返した。当たり前すぎて、その音をわざわざ聞いたことなんてなかった。等間隔の街灯。区画整理された街路。外壁沿いを巡回する汎殻の影が、いつもの時刻に、いつもの場所を横切っていく。
アスフォード家のダイニング。
セーラの焼いたパンの匂いが、部屋に満ちていた。母はいつも、リオンが起きる前に一度焼いたパンを温め直す。一度目は固くなるから、と。リオンはそれを、ただ受け取って食べていた。コーヒーの湯気が、窓からの光に揺れている。向かいの席で、父のケネスが日報を黙読していた。朝食の席でさえ、紺色の軍服には一分の乱れもない。父は何も言わず、リオンも何も言わない。
暖房が、足元から静かに部屋を温めていた。冬でも、ダイニングで息が白くなることはなかった。
リオンはテーブルの端に、士官学校の課題を広げていた。
戦術理論の演習問題。仮想の灰域集落を制圧する、最適な部隊編成を答えよ。リオンは鉛筆を走らせた。包囲、退路の遮断、最小被害での制圧。教本通りの定石を組み合わせれば、模範解答に近い編成はすぐに出る。図上の集落は、ただの記号だった。鉛筆は、止まらなかった。
パンを一口かじる。柔らかくて、温かい。なくなるなんて、思ってもみなかった。
玄関のチャイムが鳴った。
「リオン。迎えに来た」
リーヴだった。同じ士官学校の同期。穏やかな声に、丁寧すぎる物腰。年は少し上だ。リーヴの前でだけは、課題の手を止めても、なぜか気が咎めなかった。
「今日の訓練は野外だ。早く行かないと、教官にまた嫌味を言われる」
リオンは課題を畳んで、立ち上がった。セーラが「気をつけて」と声をかける。父は顔を上げず、ただ小さく頷いた。それだけで、リオンには十分だった。家を出れば、決まった訓練があり、決まった食事があり、決まった眠りがある。リオンは外套を羽織って、リーヴと一緒に玄関を出た。
二人で通りに出る。
市場を抜けた。肉屋の店先に腿肉が吊られ、八百屋には冬の根菜が積まれている。果物屋の棚に、林檎が光っていた。値札には管区統制価格が刷られていて、品切れの棚はない。顔なじみの店主が、リーヴに「学校か、精が出るな」と声をかけた。リーヴが軽く手を上げて応える。いつもの、何でもないやり取り。誰も列に並んでいないし、誰も奪い合っていない。林檎は、ただそこに積まれていた。
リーヴが歩きながら、何か他愛のないことを話していた。今日の教官の話だったか、昨日の演習の失敗の話だったか。覚えていない。覚えていないくらい、平和な朝だった。
医療棟の前を通り過ぎる。
予約制の看板が、いつもと同じ場所に掛かっていた。風邪を引けば翌日には薬が届き、骨を折れば三日で固定具ができる。順番を待つ人の列が、整然と並んでいる。順番が来るまで、誰も死なない。それが、リオンの知る「当たり前」だった。
あの頃のリオンは、その列の長さを、一度も疑わなかった。リーヴは、どうだったろう。灰域の焼け跡から拾われてきたあいつは、この整然とした列を、どんな目で見ていたのか。並んで歩きながら、リオンは一度も訊かなかった。
* * *
計器の警告灯が一つ、点滅して、リオンを現実に引き戻した。
目を開けた。残殻のコックピットの、霞んだ計器が目に入る。冷却系の圧が低い、という意味の表示だった。古い機体だ。こういう警告には、もう、いちいち驚いてなどいられない。ここはストーンクロスだ。あの市場も、あの歩道も、ここにはない。
昨日、子どもが一人、高い熱を出していた。母親が、誰かから分けてもらった薬を、震える手で量っていた。足りるかどうか、誰にも分からなかった。フォートレスなら、翌日には薬が届いていた。骨を折れば、三日で固定具ができた。ここでは、誰かが手持ちの板で添え木を作る。それで足りなければ、それまでだ。
机の上で、リオンは灰域の集落を制圧する編成を書いた。
あの問題の「仮想の集落」は、たぶん、今リオンがいるこういう場所だった。果物が並ばず、薬が足りず、それでも人が暮らしている場所。リオンはそれを、包囲して、退路を断って、最小の被害で潰す方法を、机の上で何も思わずに解いていた。減点されない解答を書くことしか、頭になかった。
その「最小の被害」の中で、何人が死ぬのか。死ぬのがどんな顔の人間なのか。リオンは一度も想像しなかった。想像する必要のない場所に、生まれて、育った。それが恵まれているということだと、気づいたのは、ここに来てからだ。
今は、その机の向こう側に、自分がいる。潰される側に。
だからといって、過去を悔いている時間はなかった。明日、ダリオの部隊が来る。教本通りの定石を組み合わせ、最小の被害でこの集落を潰しに来る。かつてのリオンが、机の上で何も思わずに書いたような編成で。それを、止めなければならない。今度は、潰される側に立って。
操縦桿を握り込む。
薄い布越しの鉄が、手のひらの熱を奪っていく。ポラリスのグリップは、いつだってリオンの手の形に馴染んで、温かかった。
自分から全部捨てて逃げたくせに、あの機体が、まだ恋しい。戻りたいわけじゃない。なのに、恋しい。なんてみっともないんだろう。
鉄の冷たさを握ったまま、リオンは、しばらくのあいだ、ただ息を吐いていた。白い靄が、また一つ、誰もいないコックピットに広がっては、消えていった。




