凍てつく|灰域《アッシュランド》
風が鳴っていた。
ストーンクロスの壁の上に立つと、白く凍った灰域が一望できる。灰原草の穂は雪に埋もれ、旧世界の廃墟群が白い靄の中に輪郭だけを残していた。吐く息が白い。手袋越しでも、指先の感覚がもう遠い。焦土紀23年、師走の半ば。今年の冷えは、骨まで来るのが早かった。
壁の内側では、男たちが防壁の補修にかかっていた。崩れた石を組み直し、隙間に凍った泥を詰めている。この冬を越すまでに、できるだけ手を入れておくつもりらしい。槌の音が、冷えた空気の中で硬く跳ねた。ここ数日で、灰域のあちこちから人が集まり始めている。みんな、何かが来ると感じているのだ。
カイは壁の上から格納庫の方角を見下ろした。
門の前に、見慣れない残殻が3機並んでいる。今朝方ストーンクロスに着いた部隊だ。装甲の色も形もばらばらで、右腕だけが別の機体から移植されたもの、胴体に鉄板を溶接で貼りつけたもの。寄せ集めだ。あれで動くのか、と他人事のように思う。それでもこの寒さの中、エンジンを温めて連れてきたのなら、たいした執念だ。残殻のエンジンは、冬場は始動だけで普段の3倍は時間を食う。
バートンが壁の下から声をかけてきた。
「カイ。降りてこい。紹介する」
壁の階段を降りると、格納庫の前に大柄な男が立っていた。
顔を斜めに横切る古い刀傷と、無造作に伸びた顎髭。背後に残殻を5機従えて立つ姿は、傭兵というより山賊の頭だった。
「ボルト・レイダー。灰域南部で傭兵団を率いている」
バートンが紹介した。ボルトはカイを見下ろし、値踏みするように目を細めた。
「テオ・セヴァルの息子か」
砂利を踏みつぶすような低い声だった。腹の底に響いて、聞いているだけで肩が強張る。
「昔、あんたの親父の戦いをこの目で見た。南部の集落防衛戦だ。ケストレル1機で、敵の傭兵団を丸ごと薙ぎ倒しやがった。俺がまだ若造だった頃だ」
ボルトの口元が、僅かに歪んだ。笑ったのか、これは。気づくのに一拍かかった。
「あの日から、俺は知った。この灰域にも、英雄がいるってな」
声に、妙な熱がこもっていた。さっきまでの値踏みする目が、一瞬だけ遠くを見るような目に変わる。
「テオは消えた。だが、息子が残ってる。それで充分だ」
「助かる」バートンが短く応じた。「南の連中とも話はつけた。あと数日で、東のレンガ造りの集落からも人が来る。バラバラに潰されるより、一つにまとまった方が長く保つ」
ボルトが鼻を鳴らした。「灰域がまとまるとはな。テオが生きてたら笑うぜ」
まとまる、という言葉が耳に残った。これまでストーンクロスは、ストーンクロスだけで生きてきた。よその集落とは、せいぜい物々交換をする程度の付き合いだ。それが今、肩を並べて壁を直し、同じ敵に備えようとしている。何かが、これまでと違う方へ動き始めている。いいことなのか悪いことなのか、俺にはまだ分からなかった。
背後の6人。一様にくたびれた装備を身にまとっているのに、目だけがやけにぎらついていた。こっちを値踏みする目だ。気を抜いたら何をされるか分からない――そういう目を、俺はこの土地で何度も見てきた。父がいた頃から、ここはそういう連中ばかりだった。
灰域の人間は、金では動かない。動くのは借りと義理だ。誰が誰を助けたか、誰が誰を見捨てたか。それを何年経っても、それこそ一生覚えていて、ある日ふらりと返しに来る。ボルトもそうやって、わざわざ南部からここまで来たのだろう。
だが、その連中が父の名前を聞いて姿勢を正す。それがどういうことなのか、俺はまだ半分も分かっていない気がする。父は俺に、戦い方は教えてくれた。けれど、自分が何をしてきたのかは、ほとんど話さなかった。
* * *
午後、ケストレルで試験飛行を行った。
格納庫の扉が開くと、冬の白い光が鉄紺色の装甲を照らす。コックピットに乗り込み、ハッチを閉じる。冷えた革のシートが、背中越しに体温を吸っていく。計器が一つずつ点灯していった。燃料はまだ充分。外気はマイナス14度。指示が一拍遅れて立ち上がるのも、寒さのせいだ。
スロットルを上げた。背部のスラスターが唸りを上げ、ケストレルが地面を蹴る。
機体が宙に浮いた瞬間、凍えた空気がフレームの隙間に入り込んだ。右膝を曲げる。応答が、夏より硬い。グリスが冷えて、関節が渋っている。
くそ、と口の中で呟いた。鋳脈者なら、膝が冷えているくらい乗った瞬間に体で分かるんだろうな。俺は計器を1つ拾って、頭で組み立てて、それから手を動かす。その分、いつも半歩遅い。それを父はどう埋めていたんだろう。
だが、動く。
他の残殻ならとっくに関節が凍りついて棒立ちになる寒さだ。ケストレルは違う。30年前の代物のくせに、この機体だけは冬を知らないみたいに動いてくれる。父がこいつに何をしたのか、俺はやっぱり全部は知らない。
旋回に入った時だった。
不意に、機体の周りの空気が、ふっと近くなった気がした。雪を巻き上げる風が右から左へ抜けていく。その圧を、肌でなぞるみたいに先に感じる。来るはずの横揺れに、計器が数字で寄越すより前に、もう手が当たっていた。なんだ、今の。考える間もなく、頭の奥がじんと痺れて、感覚はすぐに鈍る。気のせいか。たぶん、気のせいだ。
操縦桿を握り直す手に、汗が滲んでいた。手袋の中だけ、妙に熱い。
セルヴィスの正規軍が相手だ。鋳脈者揃いの連中に、計器読みの半歩遅れがどれだけ通用するのか、本当のところは分からない。考えても答えは出ない。出ないまま、明日が来る。
ストーンクロスの上空を旋回した。
眼下に集落が見える。旧採石場を削って作った、いびつな街並み。煙突から、細い煙が真っ直ぐ立ちのぼっている。風が止んだ証拠だ。壁の上を、見張りが1人、寒そうに足踏みしていた。あいつも今夜は当たりか。
東の空に目を向ける。
何もない。白い雪原が地平線まで続いているだけだ。だが、と思う。あの白さの向こうから、何かが来る。来るのが分かっていて、まだ何も見えない。それがいちばん落ち着かなかった。いっそ何か見えてくれた方が、まだましな気がした。腹は決まっているつもりなのに、指先だけが冷たいままだった。
* * *
着陸後、格納庫にリントが戻ってきた。
偵察から帰った残殻は、装甲に雪がこびりつき、関節から白い蒸気を上げている。コックピットから降りたリントの顔は、寒さではなく、別の何かで強張っていた。
バートンとカイがリントを出迎える。
「報告する」
リントは息を整えてから言った。
「東から部隊が来ている。残殻の足跡じゃない。汎殻だ。正規軍の編成」
バートンの目が細くなった。
「コルヴァスか」
リントは首を振った。
「先鋒は違う。追撃隊だ。リオン・アスフォードの独断行動を追ってる連中だ」
バートンが何か低く呟いたが、よく聞き取れなかった。
追撃隊。リオンを追っている連中。
その言葉が頭の中で像を結ぶより先に、指先がもう冷えていた。喉の奥で、呼吸が浅くひきつる。嘘だろ。勘弁してくれよ、と思う。さっき試験飛行で見た、あの東の白い雪原。何もないと思っていた空へ、俺は逃げるように視線を戻した。
灰色の地平線は、さっきと同じだ。まだ何も、見えなかった。




