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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第3章 ツボは、動く

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第7話 揉み返し

 お疲れ様です。

 昨日まで効いていたはずの場所が、今日はもう正解じゃない。そんなことが、身体には起こります。

 今回から第3章。本作でいちばん書きたかった「手技」の回です。夢を諦めかけた若者の腰に、柊木が向き合います。まずは、彼がどうしてそんな身体になってしまったのか。どうかお付き合いください。


 その青年を見つけたのは、美咲だった。

 非常階段の踊り場で、社内便の台車に半身をあずけるようにして、若い男がうずくまっていた。社員証ではなく、業務委託の青いカードを首から下げている。フロアに備品を運んでくれる、あのアルバイトの子だ。名前は確か、速水といった。


「速水くん、どうしたの。大丈夫?」

 美咲がしゃがむと、青年は脂汗の浮いた顔で笑おうとした。

「あ……小林さん。すいません、ちょっと腰が。すぐ動けるんで」

「動けてないでしょ、それ」

 美咲は、少し前の自分なら言えなかった言葉を、するりと口にしていた。台車を押さえ、青年の腕を肩で支える。

「うちの福利厚生に、鍼の先生が来てるの。業務委託の人も診てもらえるはずだから。来て」


 施術ブースに運び込まれた速水陸は、20歳だと名乗った。

 柊木が温かいお茶を差し出すと、陸は両手で包むようにして受け取り、けれど一口も飲まずに、震える声で吐き出した。

「先生。俺、もう、ステージに立てないかもしれなくて」

「ステージ」

「バンド、やってて。来週、はじめてちゃんとしたライブハウスでやれるんです。そこ、いつも事務所の人が見に来てて。声かかるかもって。……それなのに」

 陸は、腰に手をやった。

「ライブの練習で、ヘッドバンギングしすぎて腰やって。やばいと思って、駅前の整体行ったんです。グイグイ、すごい力で。気持ちいいくらいで。そしたら次の日、起き上がれなくなって」

「揉み返し、ですね」

 柊木は静かに言った。


「整体の先生は悪くないんです。俺が、もっと強く、もっと強くって頼んだから」

 陸の声が、だんだん小さくなる。

「強くやってもらえば、それだけ早く治ると思って。来週までに、間に合わせなきゃって。なのに、逆に動けなくなって。……俺、いっつもこうなんです。焦って、力でなんとかしようとして、全部こわす」

 うつむいた陸の首筋に、柊木の眼は、薄く渦を巻く黒い霧を視ていた。腰の痛みだけではない。その奥に、何か別の固さがある。けれど柊木は、まだそれを口にしなかった。


「速水さん。うつ伏せになれますか。ゆっくりで」

 陸が、呻きながら身体を倒す。柊木は、腰に手をかざした。

 昨日の整体師が、よかれと力をこめた一点。そこが今、いちばん固く張りついている。本来なら、その筋の縁を緩めてやれば、痛みは引くはずだった。

 柊木の指が、その縁へ降りる。

 けれど、触れた瞬間。

 手応えが、ずれた。

 昨日まで効いたはずの場所に、もう霧はいなかった。固さの中心が、ほんの数ミリ、奥へ、そして上へと逃げている。指で押せば張る場所と、本当に詰まっている場所が、生き物のように分かれて動いていた。


「……動いてる」

 柊木は、思わず声に出していた。

「先生?」

「いえ。少しだけ、面白いことになっています」

 柊木は手を離し、トレイの上の細い鍼を、まだ取らなかった。

 強い力で揉まれた身体は、守ろうとして、痛みのツボそのものを移し替える。昨日の正解を、今日の身体はもう手放している。ここで昨日と同じ場所へ打てば、この青年の腰は、また裏切られる。

 経絡けいらくの流れを、もう一度、最初から目で追い直す。逃げた霧が、今どこで息をひそめているのか。

 柊木の穏やかな顔つきが、すっと、職人のものに変わった。


「速水さん。今日は、急いで打ちません」

「え。でも、来週」

「間に合わせます。だからこそ、昨日のあなたじゃなく、今日のあなたの身体に、ちゃんと聞かせてください」

 窓の外で、夕方の電車が線路を鳴らして過ぎていく。

 柊木は、逃げていくツボの先を、静かに見据えていた。


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 強くやってもらえば早く治る。陸くんのその気持ち、痛いほど分かります。けれど身体は、力で押されると、痛い場所そのものをこっそり動かして守ろうとするんです。柊木が「動いてる」と漏らしたあの感覚を、次回じっくり描きます。

 次回、第8話「動くツボ」。逃げるツボを追いつめて、柊木が細い鍼を一本だけ沈めます。本作いちばんの見せ場、どうかお付き合いください。

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