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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第2章 鎮痛剤の檻

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第6話 焦げた影

 お疲れ様です。

 一本の鍼で、すべてが解決するわけではありません。今回は、柊木が「ここは、一度では取れません」と正直に線を引く回です。

 そして章の終わりに、まだ何者でもなかった頃の柊木が、少しだけ姿を見せます。

 翌週、葵は本当に職場へ戻ってきた。

 倒れたことなど、なかったかのように笑っていた。けれど、その笑いの速度が、柊木には怖かった。倒れて、薬で起こされて、また同じ速さで燃やされている。糸の切れた人形に、無理やり糸を結び直して踊らせているようだった。


 昼休み、葵は柊木のブースを訪ねてきた。

「先生。この前は、お見舞いまで来てもらって。……正直、ちょっとだけ、こわくなって」

「こわく」

「倒れたとき、何も覚えてないんです。気づいたら病院で。あんなの、初めてで」

 葵は、笑おうとして、うまく笑えなかった。背の焦げが、初めて本人の言葉と繋がりかけている。柊木は、お茶を出した。湯気が、二人のあいだでゆっくり立ちのぼった。

「遠藤さん。横になってもらえますか。少しだけ、診させてください」


 葵をうつ伏せにして、柊木は背に手をかざした。

 視える。焦げは、芯まで黒い。これは、葵自身が溜め込んだ霧ではない。外から塗り込まれ、燃やされ続けた跡だ。本来なら、限界で消えるはずの火を、何かが消させずにいる。

 柊木は、いつもより長く、ツボを探した。逃げる霧を追い、いちばん深く焦げた一点を見定める。

 指先につまんだ細い一本が、わずかな光を弾いた。その鍼先を、焦げの芯へ、息を止めて静かに沈める。

 とん、と手応え。

 葵の背が、びくりと震えた。固く焦げついた芯の、いちばん外側が、ほんの少しだけ、ほろりと崩れた。光の波紋が、焦げの縁をなぞって広がる。

「……あ。なんか、肩の奥が、あったかい」

 葵の声が、ゆるんだ。倒れて以来、初めて出た、素の声だった。


 柊木は、鍼を抜いた。一本だけだった。

「遠藤さん。正直に言いますね」

「はい」

「これは、一度では取れません」

 葵が、うつ伏せのまま顔だけこちらに向けた。

「あなたの身体の焦げは、深い。今日ほどけたのは、表のほんの一枚です。芯はまだ、燃えている。これを本当に消すには、通ってもらうこと、それから……あの薬を、手放すこと。そのふたつが要ります」

「でも、あれがないと、私、動けなくて」

「動けないんじゃない。本当はもう、休みたいんです。身体がそう言っている。薬が、その声を黙らせているだけで」

 葵は、しばらく黙っていた。やがて、ポケットから白いシートを取り出した。残り何錠かのカプセルを、じっと見つめている。


「……今日は、まだ一錠も飲んでないんです」

 葵は、小さく言った。

「先生のとこ来る前に、飲もうとして、なんか、やめてみたくて。そしたら午後、すごく頭が重くて。でも今、鍼してもらったら、ちょっとだけ軽い」

「いい兆候ですよ」

 柊木は、初めて少しだけ笑った。

「全部いっぺんに手放さなくていい。今日飲まなかった一錠。それが、あなたが自分の身体に返事をした、最初の一回です」

 葵は、シートを握ったまま、こくりと頷いた。手放せてはいない。けれど、握る指の力が、さっきより少し、ゆるんでいた。


 葵が帰ったあと、柊木はひとり、ブースで桐の小箱を開けた。

 細く、頼りないほどの一本。師の形見のこの鍼を手にするたび、思い出す顔がある。


 まだ柊木が、何者でもなかった頃。

 会社で身体を壊し、痛み止めを際限なく飲んでいた。飲めば動けた。動けるうちは、自分は大丈夫だと思い込めた。けれど、ある朝、ベッドから起き上がれなくなった。痛みも、もう感じなかった。感じる回路ごと、薬で焼き切れていた。

 そんな柊木の背中を、町外れの古い治療院で、ひとりの老人が診た。白石宗玄。皺だらけの手で、柊木の背に触れて、ぽつりと言った。

 ああ、これは。焦げとるな。

 白石は、薬のシートを指して、こう続けた。

 あんた、漢方薬は知っとるか。あれはな、身体の抵抗力を引き出すトリガーなんだ。眠っとる力を、起こしてやるだけ。麻痺させる薬とは、まるで逆だよ。

 それを理解せずに使えば、ただの毒になる。痛みを黙らせる薬も、同じだ。使い方を間違えれば、人を焦がす。

 白石は、細い鍼を一本、柊木の背に沈めた。

 とん、と、温かい何かが広がった。焼き切れたと思っていた回路の奥で、忘れていた「痛い」という感覚が、かすかに戻ってきた。柊木は、その鍼の温度を、生涯忘れなかった。


 ブースの窓が、夕暮れに染まっていた。

 柊木は、形見の鍼を、そっと小箱に戻した。

 葵の焦げは、自分があの朝負っていた焦げと、同じ匂いがした。けれど、ひとつだけ違う。柊木の焦げは、自分が選んで飲んだ薬の跡だった。葵のは違う。誰かが、職場という檻の中で、当たり前のように配り、当たり前のように飲ませている。

 郷原は、出しているだけだと言った。では、その薬を郷原に卸しているのは、誰なのか。

 あの白いカプセルの、さらに奥。

 柊木の眼の奥で、まだ顔のない誰かの影が、焦げの匂いとともに、静かに濃くなっていった。


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 葵が握りしめた「今日は、まだ一錠も飲んでいない」。派手ではないけれど、彼女にとっては倒れて以来いちばん勇気のいる一歩でした。一度では取れない焦げと、ゆっくり向き合っていきます。

 そして、かつての柊木と白石老人の出会い。柊木がなぜ鍼を、なぜ細い一本にこだわるのか。その根っこが、ここにあります。白石という人がこの先どうなったのかは、もう少し物語が進んでから。

 次回からは第3章。夢を諦めかけた若者の腰を、柊木が「動くツボ」を一撃で整えます。本作いちばんの勝負どころ、どうかお付き合いください。

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