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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第2章 鎮痛剤の檻

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第5話 痛みは、誤差ですか

 お疲れ様です。

 「痛みは消せばいい」。それは一見、優しさのようにも聞こえます。

 今回、柊木は初めて、その言葉を本気で信じている人と向き合います。提携クリニックの産業医、郷原秀一の登場です。

 葵が運ばれた病院は、メビウスソフトの提携先、ヘリオス産業医クリニックだった。

 柊木が見舞いに着いたとき、葵はもう個室のベッドで上体を起こしていた。点滴の管を腕に挿したまま、ノートパソコンを膝に広げている。

「あ、先生。わざわざすみません。私、明日には戻れるみたいで」

 葵は笑った。倒れた人間の顔ではなかった。背の焦げは、まだそこにある。


 病室を出たところで、白衣の男とすれ違った。

 40代半ば。縁の細い眼鏡。柊木に気づくと、男はわずかに足を止めて、品定めするような視線を寄越した。

「あなたが、例の鍼の先生ですか」

「柊木と申します」

「郷原です。このクリニックで産業医をしています」

 郷原は名刺を一枚差し出した。受け取りながら、柊木は男の身体を見た。歪みらしい歪みがない。焦げもない。きれいに整っているのに、どこか、芯のところが冷えている。


 郷原は、葵の病室のドアに目をやって言った。

「遠藤さんね。明日には復帰させます。点滴で水分と電解質を入れて、処方を少し増やせば、また動けるようになる」

「処方、というのは」

「あなたもご存じでしょう。社員に配っているものですよ。よく効く」

 郷原の口調は穏やかだった。悪びれる様子も、隠す様子もない。


「彼女は、限界を超えて倒れたんです」

 柊木は、できるだけ静かに言った。

「薬で起こせば動きます。でも、それは火が消えたんじゃない。スイッチを切られた警報の下で、身体はまだ燃えている。彼女に今必要なのは、増やすことじゃなくて、止めることだと思います」

 郷原は、ふっと笑った。哀れむような笑い方だった。

「先生。痛みというのは、なんだと思いますか?」

「身体からの、手紙です」

「手紙?」

 郷原は、心底おかしそうに眼鏡の奥を細めた。

「私はね、ノイズだと思っているんですよ。仕事を止める、ただの雑音だ。頭が痛い、肩が重い、眠い。そんなものにいちいち付き合っていたら、現代社会は一日も回らない。痛みは、消せばいい。消せる時代に、わざわざ味わう必要がどこにあるんです」


 窓の外で、救急車のサイレンが遠ざかっていった。


「個人の身体の調子など」

 郷原は、廊下の蛍光灯を見上げて続けた。

「組織全体の数字に比べれば、誤差ですよ。誤差を一つひとつ拾っていたら、全体が沈む。私は産業医として、何百人の生産性を預かっている。一人の眠気のために、納期を落とすわけにはいかない」

 言葉に淀みがなかった。長く考え抜いた末にたどり着いた、本人なりの正義だった。だからこそ、柊木の胸の奥が静かに冷えていく。これは、悪人の理屈ではない。効率という名の、現代そのものの本音だった。


「郷原先生」

「なんでしょう」

「あなたの言う誤差は、遠藤さんという一人の人間です。彼女は今日、フロアで糸の切れた人形みたいに倒れました。明日また薬で起こしても、その糸は繋がっていない。いつか、二度と起き上がれなくなる」

「ならない。そのためのデータを、私は持っている」

 郷原は名刺をもう一枚出すように、すらすらと数字を並べた。投与量、再稼働率、離職率の改善。どれも、人を一つの装置として見た指標だった。


「鍼で、それが出せますか」

 郷原は、初めて挑むような目をした。

「経絡だの気だの。非科学的なオカルトに、私は社員を任せるわけにはいかない。先生、申し訳ないが、福利厚生の見直しを会社に提案させてもらいます。あの施術ブース、来期はないかもしれない」

 はっきりとした、追い出しの宣告だった。


 柊木は、すぐには言い返さなかった。

 代わりに、郷原の背後の壁に貼られた、健康増進のポスターを見た。笑顔の社員のイラストの下に、「痛みのない、生産的な毎日を」と書いてある。

 数字は、嘘をつく。並べ方ひとつで、どんな正義にもなる。

 だが、身体は嘘をつかない。葵の背で今も燃え続けているあの焦げは、どんな再稼働率のデータにも載らない。載らないからといって、ないことにはできない。


「先生のデータに、遠藤さんの『眠る暇があったら手を動かしたい』は、載っていますか」

 柊木は、静かに訊いた。

「彼女がなぜ、倒れるまで自分を急かしたのか。なぜ薬を手放せないのか。その理由は、再稼働率の欄には書けないでしょう。俺が視ているのは、そこなんです」

 郷原の眉が、わずかに動いた。けれどそれも一瞬で、すぐにいつもの薄い笑みに戻った。

「視ている、ね。……まあ、いい。来期の会議で、決着をつけましょう」

 郷原は会釈もせず、白衣を翻して去っていった。


 ひとり廊下に残った柊木は、葵の病室のドアを、もう一度見た。

 あの中で、葵はまだパソコンを打っている。倒れた当日に。誰かに「動け」と急かされ続けたまま。

 郷原は、薬を出しているだけだと思っている。自分が正しいと、本気で信じている。

 けれど、その薬がどこから来ているのか。郷原自身、本当に知っているのだろうか。

 柊木は、受け取ったばかりの名刺に目を落とした。ヘリオス産業医クリニック。その名の、さらに後ろ。あの白いカプセルを作って、ここへ流し込んでいる、誰か。

 焦げの匂いは、郷原の一段奥から漂ってくる気がした。


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 郷原は、わかりやすい悪人ではありません。「痛みは消せばいい」「個人の不調は誤差だ」。彼の言葉に、ほんの少しでも頷いてしまった方がいたら、それこそがこの物語の出発点です。

 次回、柊木はいよいよ葵の背の焦げに鍼を入れます。ただし、一度では取りきれない。「薬を手放し、養生する」という、いちばん難しい一歩を、葵は踏み出せるのか。そして章の終わりに、柊木自身の過去が、少しだけ顔をのぞかせます。

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