表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第2章 鎮痛剤の檻

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/16

第4話 見た目だけ、元気

 お疲れ様です。

 いちばん元気に見える人が、いちばん危ない。職場で、そんな人に心当たりはありませんか。

 第2章が始まります。今回は「見た目だけ元気」の正体と、柊木の眉が初めて険しくなる瞬間を書きました。


 メビウスソフトの開発フロアは、朝から熱を帯びていた。

 月末のリリースが近い。あちこちでキーボードの音が雨のように鳴り、誰かが小走りに会議室へ消えていく。柊木は週に二度、このフロアの片隅に置かれた施術ブースへ通っている。福利厚生の産業鍼灸師。社員からすれば、休憩室の延長にいる、少し風変わりな先生だ。


 その朝、柊木がブースの準備をしていると、フロアのいちばん奥から、よく通る笑い声が聞こえた。

 遠藤葵だった。

「大丈夫大丈夫、これくらい巻き返せるって。私、徹夜明けがいちばん頭冴えるタイプなんで」

 三徹目だと、隣の席の誰かが小声で言っていた。それなのに葵の声には、疲れの影がまるでない。むしろ朝から全開で、フロアの誰よりも速く手が動いている。タスクを引き受け、後輩に指示を飛ばし、笑い、また打鍵する。見ているだけで、こちらまで元気をもらえそうな働きぶりだった。


 柊木は、湯を沸かす手を止めた。

 葵の背中に、視えるものがあったからだ。


 黒い墨の霧。それは、この会社のフロアでは珍しくない。けれど葵のそれは、ほかの社員のものとは色が違った。

 ふつうの霧は、重く、分厚く、沈んでいる。葵のは、芯のところが真っ黒に焦げていた。炭になる寸前の薪のように、表面だけが赤々と燃えて、内側は炭化している。燃えているのではない。燃やされているのだ、と柊木は思った。本来そこにあるはずの「もう休みたい」という身体の声が、無理やり塗り潰されている。


 昼休み、葵がコーヒーの缶を片手にブースの前を通りかかった。

「先生、おはようございます。あ、もうお昼か」

「遠藤さん。少し、顔色が」

「えー、そうですか? 絶好調なんですけど」

 葵は笑って、ポケットから小さなシートを取り出した。白いカプセル。柊木が見覚えのある、あの薬だった。

「これのおかげで。提携クリニックでもらえるんですよ。飲むとシャキッとして、疲れも痛みも全部消えるんです。先生の鍼もいいんでしょうけど、私はこっちのほうが手っ取り早くて」

 葵はカプセルを一錠、コーヒーで流し込んだ。あまりに慣れた手つきだった。


 柊木は、何も言わなかった。言ったところで、今の葵には届かない。痛みを感じる回路を黙らせる薬は、同時に「忠告を聞く耳」まで黙らせてしまう。

 ただ、ひとつだけ訊いた。

「遠藤さん。最近、夜は眠れていますか」

 葵の笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。

「……眠る暇があったら、手を動かしたいんで」

 そう言って、葵はまたフロアへ駆け戻っていった。背中の焦げが、午前より一段、黒く沈んだように見えた。


 午後3時を回った頃だった。

 フロアの空気が、ふいに裂けた。

 何かが床に倒れる、鈍い音。続いて、椅子の倒れる音と、悲鳴のような声。

「葵っ? ちょっと、遠藤さん!」

 柊木がブースを飛び出したときには、葵は奥のデスクの脇で、糸の切れた人形のように崩れていた。さっきまであれほど速く動いていた手が、力なく床に投げ出されている。周りに人が集まり、誰かが救急車、と叫んだ。


 柊木は人垣をかき分け、葵の傍らに膝をついた。

 呼吸はある。脈もある。けれど浅い。額に触れると、汗で湿っていた。そして、視える。

 倒れて意識を失ってなお、葵の背の焦げは、消えるどころか、まだ赤くちろちろと燃えていた。

 ふつう、人は限界が来れば倒れる。倒れれば、身体は活動を止めて休もうとする。火は小さくなる。それが、生き物のあたりまえの仕組みだ。

 なのに、葵の火は消えない。倒れてもなお、内側で何かが、動け、まだ動け、と急かしている。アクセルを踏んだまま気を失った車のように、本人の意思とは無関係に、身体だけが空回りで燃やされ続けている。


 柊木の背筋が、冷たくなった。

 これは、過労で電池が切れたんじゃない。

 誰かが、切れた電池に外から電流を流し込んでいる。


 救急隊が到着し、葵は担架で運ばれていった。フロアにざわめきが残る。「働きすぎだよ」「あんなに元気だったのにね」。そんな声を、柊木は遠くに聞いた。

 元気だったのに、ではない。元気そうに見えていただけだ。あの白いカプセルの下で、葵はとっくに焦げ尽きる寸前だった。それを誰も気づけなかったのは、薬が「疲れた」という顔を、本人からも周りからも奪っていたからだ。


 ブースに戻った柊木は、しばらく動けなかった。

 冷めたお茶を一口飲んで、ようやく息を吐く。

 葵に処方されているという、あの薬。痛みを消すだけなら、まだいい。だがあれは、消すだけではない。倒れた身体を、なお無理やり起こそうとする力を持っている。鎮痛薬というより、興奮剤に近い何かだ。

 誰が、なんのために、こんなものを社員に配っているのか。

 そして、ふと思った。あの薬を最初に出している場所がある。提携クリニックの、産業医。

 柊木の眼の奥で、まだ見ぬその人物の輪郭が、静かに立ち上がりはじめていた。


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 「見た目だけ元気」というのは、現代でいちばん見過ごされやすい危険信号かもしれません。倒れてなお燃やされ続ける葵の身体を、柊木はただの過労とは見ませんでした。

 次回、その薬を配る側。提携クリニックの産業医、郷原秀一と、柊木が初めて正面から向き合います。「痛みは、消せばいい誤差だ」と言い切る彼に、鍼師はどう挑むのか。

 面白いと思っていただけたら、ブックマークと評価で応援していただけると、とても励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ