第4話 見た目だけ、元気
お疲れ様です。
いちばん元気に見える人が、いちばん危ない。職場で、そんな人に心当たりはありませんか。
第2章が始まります。今回は「見た目だけ元気」の正体と、柊木の眉が初めて険しくなる瞬間を書きました。
メビウスソフトの開発フロアは、朝から熱を帯びていた。
月末のリリースが近い。あちこちでキーボードの音が雨のように鳴り、誰かが小走りに会議室へ消えていく。柊木は週に二度、このフロアの片隅に置かれた施術ブースへ通っている。福利厚生の産業鍼灸師。社員からすれば、休憩室の延長にいる、少し風変わりな先生だ。
その朝、柊木がブースの準備をしていると、フロアのいちばん奥から、よく通る笑い声が聞こえた。
遠藤葵だった。
「大丈夫大丈夫、これくらい巻き返せるって。私、徹夜明けがいちばん頭冴えるタイプなんで」
三徹目だと、隣の席の誰かが小声で言っていた。それなのに葵の声には、疲れの影がまるでない。むしろ朝から全開で、フロアの誰よりも速く手が動いている。タスクを引き受け、後輩に指示を飛ばし、笑い、また打鍵する。見ているだけで、こちらまで元気をもらえそうな働きぶりだった。
柊木は、湯を沸かす手を止めた。
葵の背中に、視えるものがあったからだ。
黒い墨の霧。それは、この会社のフロアでは珍しくない。けれど葵のそれは、ほかの社員のものとは色が違った。
ふつうの霧は、重く、分厚く、沈んでいる。葵のは、芯のところが真っ黒に焦げていた。炭になる寸前の薪のように、表面だけが赤々と燃えて、内側は炭化している。燃えているのではない。燃やされているのだ、と柊木は思った。本来そこにあるはずの「もう休みたい」という身体の声が、無理やり塗り潰されている。
昼休み、葵がコーヒーの缶を片手にブースの前を通りかかった。
「先生、おはようございます。あ、もうお昼か」
「遠藤さん。少し、顔色が」
「えー、そうですか? 絶好調なんですけど」
葵は笑って、ポケットから小さなシートを取り出した。白いカプセル。柊木が見覚えのある、あの薬だった。
「これのおかげで。提携クリニックでもらえるんですよ。飲むとシャキッとして、疲れも痛みも全部消えるんです。先生の鍼もいいんでしょうけど、私はこっちのほうが手っ取り早くて」
葵はカプセルを一錠、コーヒーで流し込んだ。あまりに慣れた手つきだった。
柊木は、何も言わなかった。言ったところで、今の葵には届かない。痛みを感じる回路を黙らせる薬は、同時に「忠告を聞く耳」まで黙らせてしまう。
ただ、ひとつだけ訊いた。
「遠藤さん。最近、夜は眠れていますか」
葵の笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。
「……眠る暇があったら、手を動かしたいんで」
そう言って、葵はまたフロアへ駆け戻っていった。背中の焦げが、午前より一段、黒く沈んだように見えた。
午後3時を回った頃だった。
フロアの空気が、ふいに裂けた。
何かが床に倒れる、鈍い音。続いて、椅子の倒れる音と、悲鳴のような声。
「葵っ? ちょっと、遠藤さん!」
柊木がブースを飛び出したときには、葵は奥のデスクの脇で、糸の切れた人形のように崩れていた。さっきまであれほど速く動いていた手が、力なく床に投げ出されている。周りに人が集まり、誰かが救急車、と叫んだ。
柊木は人垣をかき分け、葵の傍らに膝をついた。
呼吸はある。脈もある。けれど浅い。額に触れると、汗で湿っていた。そして、視える。
倒れて意識を失ってなお、葵の背の焦げは、消えるどころか、まだ赤くちろちろと燃えていた。
ふつう、人は限界が来れば倒れる。倒れれば、身体は活動を止めて休もうとする。火は小さくなる。それが、生き物のあたりまえの仕組みだ。
なのに、葵の火は消えない。倒れてもなお、内側で何かが、動け、まだ動け、と急かしている。アクセルを踏んだまま気を失った車のように、本人の意思とは無関係に、身体だけが空回りで燃やされ続けている。
柊木の背筋が、冷たくなった。
これは、過労で電池が切れたんじゃない。
誰かが、切れた電池に外から電流を流し込んでいる。
救急隊が到着し、葵は担架で運ばれていった。フロアにざわめきが残る。「働きすぎだよ」「あんなに元気だったのにね」。そんな声を、柊木は遠くに聞いた。
元気だったのに、ではない。元気そうに見えていただけだ。あの白いカプセルの下で、葵はとっくに焦げ尽きる寸前だった。それを誰も気づけなかったのは、薬が「疲れた」という顔を、本人からも周りからも奪っていたからだ。
ブースに戻った柊木は、しばらく動けなかった。
冷めたお茶を一口飲んで、ようやく息を吐く。
葵に処方されているという、あの薬。痛みを消すだけなら、まだいい。だがあれは、消すだけではない。倒れた身体を、なお無理やり起こそうとする力を持っている。鎮痛薬というより、興奮剤に近い何かだ。
誰が、なんのために、こんなものを社員に配っているのか。
そして、ふと思った。あの薬を最初に出している場所がある。提携クリニックの、産業医。
柊木の眼の奥で、まだ見ぬその人物の輪郭が、静かに立ち上がりはじめていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「見た目だけ元気」というのは、現代でいちばん見過ごされやすい危険信号かもしれません。倒れてなお燃やされ続ける葵の身体を、柊木はただの過労とは見ませんでした。
次回、その薬を配る側。提携クリニックの産業医、郷原秀一と、柊木が初めて正面から向き合います。「痛みは、消せばいい誤差だ」と言い切る彼に、鍼師はどう挑むのか。
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