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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第1章 澱(おり)を視る

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第3話 初めての澱

 お疲れ様です。

 身体が楽になると、不思議と、生き方のほうまで少し変わってきます。

 第1章はこれで最後です。美咲の小さな一歩と、その背中に残る“何か”を、どうか見届けてください。


 鍼に通うようになって、二週間が過ぎた。

 美咲の身体は、目に見えて変わっていった。目覚ましより先に起きる日が増えた。コーヒーで流し込んでいた頭痛薬のシートは、まだ鞄の底にある。それでも、手に取る回数は確かに減っていた。


 その日も、美咲は施術ブースにいた。

「最近、夜に眠れるんです。あんまり久しぶりで、最初はこわいくらいで」

 うつ伏せのまま、くぐもった声で美咲が言う。柊木は背中の霧を指でたどりながら、静かに笑ったようだった。

「いいことですよ。眠れるのは、身体が安心しはじめた証拠です」

 彼は今日の一点を見定め、細い鍼を一本だけ打った。とん、と背中の奥が温かくなる。美咲の肩から、こわばりがまた一枚はがれていった。


 施術のあと、柊木はいつものお茶を出しながら言った。

「小林さん。鍼っていうのは、火を消して回ってるだけなんです。本当に大事なのは、火が燃え広がらない暮らし方のほうで」

「暮らし方……」

養生ようじょう、と言います。難しいことじゃありません。夜は仕事を家まで連れて帰らない。温かいものを、ゆっくり飲む。痛みを薬で黙らせる前に、一度だけ身体に聞いてみる。それだけで、澱の溜まり方が変わってきますよ」

 美咲は湯呑みを両手で包んだ。温かい。自分のために誰かがお茶を入れてくれたのは、いつ以来だろうと思った。



 その夜、美咲は珍しく、定時より少しだけ早くパソコンを閉じた。

 黒岩が何か言いたげにこちらを見た。それでも美咲は、「お先に失礼します」と、できるだけいつもの声で言った。心臓が小さく跳ねた。たったそれだけのことが、これまではどうしてもできなかったのだ。

 帰り道、いつもなら頭痛薬を流し込むところで、美咲はコンビニの温かいほうじ茶を選んだ。両手で包むと、ブースで飲んだあのお茶の温度を思い出した。

 火を消して回るだけじゃなくて、火元のほうを。

 美咲は初めて、自分の暮らしそのものを、少しだけ振り返った。



 美咲が帰ったあと、柊木は誰もいないブースで、ひとり桐の小箱を開けた。

 細く、頼りないほど繊細な一本。師・白石が最初に握らせてくれた、形見の鍼だ。使うためではなく、こうして手のひらにのせるたび、あの老人のことを、ふと思い出す。

 かつて柊木自身が、廃人寸前だった頃。痛み止めを際限なく飲み、身体の声などとうに聞こえなくなっていた頃。あの人だけが、彼の背中を診て、静かに言った。

 身体は、誰かの所有物じゃない。その人自身のものだ。忘れるな。

 そのひと言が、彼を引き戻した。今、美咲に手渡しているのは、あのとき自分がもらったものと同じ熱だった。



 形見の鍼を小箱に戻しながら、柊木はさっきの美咲の背中を、もう一度思い返していた。

 霧は確かに薄らいでいる。暮らしも、少しずつ整いはじめている。それなのに、背骨の奥にひとつだけ、どうしても融けない芯が残っていた。

 ただの過労なら、養生でゆっくり薄れていくはずのもの。けれどそれは、まるで毎日、外から塗り重ねられるように、黒く焦げついて、頑固にそこへ居座っていた。

 フロアの何人かが、あの白いカプセルの下で纏いはじめた焦げとは、色が違う。これは薬に灼かれた跡じゃない。

 これは、本人が抱え込んだ霧じゃない。

 断れない彼女に、際限なく仕事を積み続ける——この職場そのものが、来る日も来る日も、外から塗り重ねている。

 柊木は、暗い窓に映る自分の顔を見つめた。

 まだ間に合う。彼女も、この会社も。

 病になってからでは、遅い。病になる前——未病のうちに手を打つのが、最高の治療家の仕事だ。白石は、いつもそう言っていた。だからこそ、間に合ううちに突き止めなければならなかった。誰が、なんのために、人を焦がしているのかを。


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 第1章はこれでひと区切りです。痛みを取り戻すことは、暮らしを取り戻すこと。美咲の小さな「お先に失礼します」は、書いていて少し誇らしくなりました。

 次章から、その焦げを生み出している“顔”が見えてきます。提携クリニックの産業医、郷原秀一の登場です。

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