第2話 ツボは動く
あの鍼の翌朝、美咲は十年ぶりくらいに、目覚ましより先に目が覚めた。
頭が軽い。肩の鉄板のような重さもない。世界がこんなに静かだったのかと、出社の電車でぼんやり思った。
けれど三日もすると、首の付け根にまた鈍い澱が戻ってきた。前ほどではない。でも、確かにある。身体は正直だった。
昼休みのフロアで、遠藤葵が缶コーヒー片手に近づいてきた。同期で、いちばん仕事ができて、いちばん無理をしている女の子だ。
「小林さん、昨日も終電だったでしょ。顔に出てるよ」
「葵こそ。徹夜明けって聞いたけど、元気そうだね」
「これのおかげ」
葵が小さなシートを振ってみせた。見慣れない、白いカプセルだった。
「提携クリニックでもらえるの。飲むと頭が冴えて、疲れも痛みも全部どっか行くんだ。小林さんも鍼なんかより、これもらいなよ。先生に言えばすぐ出してくれるから」
痛みが、全部どっか行く。その響きに、美咲の指が一瞬だけ動いた。締切は今日も明日も待ってくれない。楽になれるなら、と思いかけた自分に気づいて、少しこわくなった。
夕方、美咲はまた施術ブースの椅子に座っていた。
柊木は今日も急須から湯気を立て、何も急かさずにお茶を出した。それから背後に回り、肩に触れる。
美咲は、あれ、と思った。
「先生、そこ……前と違う場所ですよね。前は、もっと首の下のほうだった気がして」
「よく気づきましたね」
柊木は、感心したように目を細めた。
「ツボは動きますからね。昨日の正解が、今日は正解じゃない。あなたの澱は、今日はここに溜まってるんです」
「動く……」
「痛みは、身体からの手紙みたいなものなんですよ。中身は毎日少しずつ変わる。だから、昨日と同じ場所に同じ鍼を打っても、もう届かない」
彼は美咲の背の一点を、指の腹でゆっくり探っていった。視線が、彼女の身体の輪郭の少し外側を追っているように見えた。
ふと、柊木の手が止まった。
昼間の葵の、底抜けに明るい顔が、美咲の頭をよぎる。
「先生。さっき同僚が、痛みを全部消してくれる薬があるって。クリニックでもらえるって言ってました」
「……ええ。知っています」
柊木の声が、ほんのわずかに低くなった。
「あれは、よく効きます。痛みを感じる回路を、上手に黙らせてくれる。本当に、よくできた薬ですよ」
「じゃあ、飲んだほうが」
「痛みが消えるのと、歪みが治るのは、別の話なんです」
柊木は、美咲の正面に回って座った。
「痛みは、身体が鳴らしている警報です。薬はその警報のスイッチを切る。でも、火元はまだ燃えている。鳴らない警報の下で、身体は静かに焦げていく。それを、東洋医学では未病と呼びます。まだ病気じゃない。でも、もう健康でもない」
美咲は、葵のあの白いカプセルを思い出した。あんなに元気そうだったのに、と思いかけて、言葉を呑んだ。
元気そう、なだけだったのかもしれない。
「さて。手紙、読ませてもらいますね」
柊木が、細い銀色の鍼を一本だけ抜き取った。
彼は逃げる霧を追って、指先を滑らせる。さっき触れた場所から、ツボはもう少し背骨寄りに移っていた。柊木はそこをじっと見据え、息を整えた。
そして、迷いなく打った。
とん、と小さな手応え。美咲の背を、温かい何かが波のように広がっていく。固まっていた首の付け根が、内側からほどけていった。
「あ……ほんとだ。今日のは、ここだったんだ」
「身体が、ちゃんと教えてくれていますよ。あなたが聞いてあげさえすれば」
美咲は、深く息を吸った。胸の奥まで空気が入る。この人は、私の身体が言葉にできないことまで、全部わかってしまうのだと思った。
「先生って、なんでも視えてるんですね」
柊木は、少しだけ困ったように笑って、それには答えなかった。
帰り際、ブースを出ようとした美咲の耳に、廊下の話し声が届いた。
「あの鍼の人、いつまで置いとくんだろうね」
「産業医の先生が渋い顔してるらしいよ。非科学的だって。薬で済むのにって」
美咲は、思わず足を止めた。振り返ると、ブースの中で柊木が静かに鍼を片づけているのが見えた。穏やかな横顔は、何も聞こえていないかのようだった。
ひとりになった柊木は、葵が見せていたという薬のことを、もう一度思い返していた。痛みを消すだけの、よくできた薬。それがこの会社に、当たり前のように配られている。
あの白さの下で、人がゆっくり焦げていくのを、自分はもう知っている。
二度と、見過ごすわけにはいかなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「痛みを消す」と「歪みを治す」は、似ているようでまるで違う。柊木の言う未病は、きっと多くの人が今いる場所だと思います。
次回、その薬を配る側に、ひとりの産業医の顔が見えてきます。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。
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