表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第1章 澱(おり)を視る

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/10

第1話 身体は嘘をつかない

 皆様、お仕事お疲れ様です。

 その頭痛を、鎮痛剤でごまかして、今日も出社していませんか。

 本作は、現代人の心身の歪みが黒い霧として視える「異能」を持った産業鍼灸師が、鍼一本で身体と人生を整えていく物語です。鍼が入る瞬間の静けさと、霧が晴れて澄み渡る解放を、描いていきます。

 錠剤を二つ、ぬるくなったコーヒーで胃に流し込んだ。舌の奥に苦みが残る。

 小林美咲はスマートフォンを開き、自分でつけている服用記録のメモを見た。並んだ○の数を指で数えて、手が止まる。今月はもう11回目だった。まだ半分も終わっていないのに、と思う。


 午後9時のオフィスは、半分が消灯していた。それでもメビウスソフトの制作フロアには、青白いモニターの光がいくつも灯っている。誰も帰ろうとしない。帰れないのだ。

 美咲の席にも、新しいタスクの通知が積もっていく。

「小林さん、これ明日の朝までにお願いできる? 君なら大丈夫だよね」

 部長の黒岩が、すれ違いざまにそう言って去っていった。お願いの形をした、命令だった。断る隙は最初から残されていない。

「……大丈夫です。これくらい、私がやれば済む話なので」

 気づけば口がそう動いていた。いつものことだ。言えなかった言葉が、喉の奥で小さな塊になって引っかかった気がした。


 奥歯を、いつのまにか噛みしめている。こめかみが脈打った。頭痛薬はもう効いている時間のはずなのに。

 痛いのが当たり前になっている。そのことに、美咲はもう驚かなくなっていた。



 その産業鍼灸師がフロアに来たのは、翌週のことだった。

 会社が福利厚生で始めた、社員向けの施術ブース。会議室をひとつ潰しただけの簡素な空間だ。同僚に半ば押し込まれる形で、美咲はその椅子に座らされた。気乗りはしなかった。鍼なんて痛いだけだろう、と思っていた。

「まずは座ってください。温かいお茶、入れますから。話は、それからにしましょう」

 男は急須に湯を注ぎながら言った。柊木透ひいらぎ とおると名乗った。30代だろうか。物腰はどこまでも穏やかで、急いでいる気配がまるでない。

 効率の塊のような職場で、その「間」は奇妙に浮いて見えた。美咲は出されたお茶を、ぼんやりと両手で包んだ。


「肩、凝ってませんか?」

 柊木が背後に回り、許可を取って、そっと肩に触れた。

 その瞬間、彼の目つきが変わった。穏やかだった空気が、刃物のように静まる。

 視えた。

 彼女の身体の周りに、重く分厚い墨のような霧が渦巻いている。それは肩から首筋を這い上がり、こめかみで濁り、喉の奥でひときわ黒く絡んでいた。澱んだ流れが、心臓のほうへ巻き込まれていく。

 柊木は静かに息を吐いた。

「ああ。肩どころじゃないですね、これは」

 彼は背中の濃い霧に目を細めた。

「頭痛も、食いしばりも、喉のつかえも有りますね。」


 美咲の指が、湯呑みの上でびくりと震えた。

「なんで……それ」

 頭痛のことしか言っていない。顎のことも、喉に何かが詰まる感じも、誰にも話したことはなかった。自分でもうまく言葉にできていなかった症状だ。

「身体は嘘をつきませんから。根は、ぜんぶ一つです」

 柊木は、彼女の肩の一点を指でたどった。

「ここ。今、いちばん痛かった場所ですよね。でも本当のツボは、もう少しずれてるんです」

 指がほんの数センチ動く。美咲の喉から、ひゅっと息が漏れた。そこだった。言われて初めて気づく、本当の芯。

「ツボは動きますからね。昨日の正解が、今日は正解じゃない。あなたが自分を押し殺して頑張った場所に、今はツボが移っているんですよ」


 柊木が取り出したのは、驚くほど細い銀色の鍼が一本だけだった。

 彼は動くツボを追って、指先を滑らせる。霧のいちばん濃い場所。逃げるように移ろう一点を、息を詰めて見定めていく。額にうっすらと汗が浮いた。

 そして、迷いなく一本を打った。

 モニターの打鍵音も、遠くの電話の音も、その瞬間だけすっと薄れた。

 ことり、と何かが弾ける音がした気がした。

 美咲の身体を巡っていた黒い霧が、鍼を打った一点から音もなく融けていく。光の細い線が経絡けいらくをたどって広がり、波紋のように澄んでいった。長く凝り固まっていたものが、ゆっくりとほどけていく。


「あ」

 美咲の口から、間の抜けた声が漏れた。

 肩が軽い。頭の奥の鈍い痛みが、潮が引くように消えていく。喉の塊さえ、いつのまにか溶けてなくなっていた。呼吸が深くなる。こんなに深く息を吸ったのは、いつ以来だろう。

 気づけば、頬を涙が伝っていた。痛くもないのに止まらない。

「すみません、私、なんで……」

「謝らなくていいんです」

 柊木は、使った鍼をそっと片づけながら言った。

「その痛みは、あなたのせいじゃない。他人の欲望を背負いすぎただけです。今は一度だけ、自分を許してあげてください」


 美咲は声を上げて泣いた。

 誰にも「大丈夫じゃない」と言えなかった。言ってはいけないと思っていた。その堰が、たった一本の鍼で切れてしまった。



 彼女が落ち着くまで、柊木は何も言わずに二杯目のお茶を入れた。

 美咲が深く頭を下げて部屋を出ていったあと、ひとり残った柊木はこめかみを軽く押さえ、長い息をついた。指先にわずかな重さが残っている。他人の澱を融かすたびに、それは自分のどこかを少しずつ削っていく。わかっていた。これは、そういう技だ。

 彼は空になった湯呑みを見つめた。穏やかな顔の、その奥で。

 あの黒さを、俺は知っている。昔、嫌というほど味わった。だから、見過ごせなかった。


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

「大丈夫です、これくらい」が口癖になっている人ほど、身体は静かに悲鳴を上げています。美咲の涙は、きっと誰かの涙でもあると思って書きました。

 柊木の鍼が次に向き合うのは、彼の「ツボは動く」という言葉の、本当の意味です。続けて読んでいただけたら嬉しいです。

 面白いと思っていただけたら、ブックマークと評価で応援していただけると、とても励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ