第1話 身体は嘘をつかない
皆様、お仕事お疲れ様です。
その頭痛を、鎮痛剤でごまかして、今日も出社していませんか。
本作は、現代人の心身の歪みが黒い霧として視える「異能」を持った産業鍼灸師が、鍼一本で身体と人生を整えていく物語です。鍼が入る瞬間の静けさと、霧が晴れて澄み渡る解放を、描いていきます。
錠剤を二つ、ぬるくなったコーヒーで胃に流し込んだ。舌の奥に苦みが残る。
小林美咲はスマートフォンを開き、自分でつけている服用記録のメモを見た。並んだ○の数を指で数えて、手が止まる。今月はもう11回目だった。まだ半分も終わっていないのに、と思う。
午後9時のオフィスは、半分が消灯していた。それでもメビウスソフトの制作フロアには、青白いモニターの光がいくつも灯っている。誰も帰ろうとしない。帰れないのだ。
美咲の席にも、新しいタスクの通知が積もっていく。
「小林さん、これ明日の朝までにお願いできる? 君なら大丈夫だよね」
部長の黒岩が、すれ違いざまにそう言って去っていった。お願いの形をした、命令だった。断る隙は最初から残されていない。
「……大丈夫です。これくらい、私がやれば済む話なので」
気づけば口がそう動いていた。いつものことだ。言えなかった言葉が、喉の奥で小さな塊になって引っかかった気がした。
奥歯を、いつのまにか噛みしめている。こめかみが脈打った。頭痛薬はもう効いている時間のはずなのに。
痛いのが当たり前になっている。そのことに、美咲はもう驚かなくなっていた。
その産業鍼灸師がフロアに来たのは、翌週のことだった。
会社が福利厚生で始めた、社員向けの施術ブース。会議室をひとつ潰しただけの簡素な空間だ。同僚に半ば押し込まれる形で、美咲はその椅子に座らされた。気乗りはしなかった。鍼なんて痛いだけだろう、と思っていた。
「まずは座ってください。温かいお茶、入れますから。話は、それからにしましょう」
男は急須に湯を注ぎながら言った。柊木透と名乗った。30代だろうか。物腰はどこまでも穏やかで、急いでいる気配がまるでない。
効率の塊のような職場で、その「間」は奇妙に浮いて見えた。美咲は出されたお茶を、ぼんやりと両手で包んだ。
「肩、凝ってませんか?」
柊木が背後に回り、許可を取って、そっと肩に触れた。
その瞬間、彼の目つきが変わった。穏やかだった空気が、刃物のように静まる。
視えた。
彼女の身体の周りに、重く分厚い墨のような霧が渦巻いている。それは肩から首筋を這い上がり、こめかみで濁り、喉の奥でひときわ黒く絡んでいた。澱んだ流れが、心臓のほうへ巻き込まれていく。
柊木は静かに息を吐いた。
「ああ。肩どころじゃないですね、これは」
彼は背中の濃い霧に目を細めた。
「頭痛も、食いしばりも、喉のつかえも有りますね。」
美咲の指が、湯呑みの上でびくりと震えた。
「なんで……それ」
頭痛のことしか言っていない。顎のことも、喉に何かが詰まる感じも、誰にも話したことはなかった。自分でもうまく言葉にできていなかった症状だ。
「身体は嘘をつきませんから。根は、ぜんぶ一つです」
柊木は、彼女の肩の一点を指でたどった。
「ここ。今、いちばん痛かった場所ですよね。でも本当のツボは、もう少しずれてるんです」
指がほんの数センチ動く。美咲の喉から、ひゅっと息が漏れた。そこだった。言われて初めて気づく、本当の芯。
「ツボは動きますからね。昨日の正解が、今日は正解じゃない。あなたが自分を押し殺して頑張った場所に、今はツボが移っているんですよ」
柊木が取り出したのは、驚くほど細い銀色の鍼が一本だけだった。
彼は動くツボを追って、指先を滑らせる。霧のいちばん濃い場所。逃げるように移ろう一点を、息を詰めて見定めていく。額にうっすらと汗が浮いた。
そして、迷いなく一本を打った。
モニターの打鍵音も、遠くの電話の音も、その瞬間だけすっと薄れた。
ことり、と何かが弾ける音がした気がした。
美咲の身体を巡っていた黒い霧が、鍼を打った一点から音もなく融けていく。光の細い線が経絡をたどって広がり、波紋のように澄んでいった。長く凝り固まっていたものが、ゆっくりとほどけていく。
「あ」
美咲の口から、間の抜けた声が漏れた。
肩が軽い。頭の奥の鈍い痛みが、潮が引くように消えていく。喉の塊さえ、いつのまにか溶けてなくなっていた。呼吸が深くなる。こんなに深く息を吸ったのは、いつ以来だろう。
気づけば、頬を涙が伝っていた。痛くもないのに止まらない。
「すみません、私、なんで……」
「謝らなくていいんです」
柊木は、使った鍼をそっと片づけながら言った。
「その痛みは、あなたのせいじゃない。他人の欲望を背負いすぎただけです。今は一度だけ、自分を許してあげてください」
美咲は声を上げて泣いた。
誰にも「大丈夫じゃない」と言えなかった。言ってはいけないと思っていた。その堰が、たった一本の鍼で切れてしまった。
彼女が落ち着くまで、柊木は何も言わずに二杯目のお茶を入れた。
美咲が深く頭を下げて部屋を出ていったあと、ひとり残った柊木はこめかみを軽く押さえ、長い息をついた。指先にわずかな重さが残っている。他人の澱を融かすたびに、それは自分のどこかを少しずつ削っていく。わかっていた。これは、そういう技だ。
彼は空になった湯呑みを見つめた。穏やかな顔の、その奥で。
あの黒さを、俺は知っている。昔、嫌というほど味わった。だから、見過ごせなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「大丈夫です、これくらい」が口癖になっている人ほど、身体は静かに悲鳴を上げています。美咲の涙は、きっと誰かの涙でもあると思って書きました。
柊木の鍼が次に向き合うのは、彼の「ツボは動く」という言葉の、本当の意味です。続けて読んでいただけたら嬉しいです。
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