第69話 痛みの帰る日
床は、硬かった。
透は、白瀬の頭の下に自分の上着を折って入れた。真柴が反対側に膝をつき、呼吸と脈を診ている。
「意識、あります。返事はできる」
「白瀬さん。聞こえますか」
白瀬の目が、天井から透のほうへ動いた。動いたが、それだけだった。
「……不思議です」
声は、驚くほど平静だった。
「身体が、動きません。動かないのは分かるのに、動かないことを、困ったとも思わない」
「喋らないでください」
「柊木さん。……これは、あなたの言った、あれですか」
止まっている感覚が無いので、気づけない。
この人は、床に倒れながら、自分の身体で、それを確認していた。
「はい」
透は、鞄からトレイを出した。
滅菌パックを開ける。細い鍼を、一本。
「打ちます」
「……効きませんよ」
白瀬が言った。
「二十年、私には何も効きません。痛み止めも、麻酔も、あの先生の鍼も。三日で切れた。……あなたの鍼も、同じです」
「効かせるために打つんじゃありません」
透は、白瀬の手首の内側に、指を当てた。
脈は、ある。細い。だが、ある。
二十年、この身体は、痛みを止めるという命令だけを受け取り続けた。その命令があまりに長く続いたので、痛みを出す仕組みそのものが、動くのをやめた。眠気も、空腹も、熱も、そこにぶら下がっていたので、一緒に止まった。
いま、その底で、渦が起きている。
止まっていたものが、動こうとしていた。動こうとして、二十年ぶんの蓋にぶつかり、行き場を失っている。
この渦を、外へ出す道が要る。
道を作るのが、鍼の仕事だ。
「白瀬さん。……根は、一つです」
透は、そう言った。
この言葉を、透はこれまで、複数の症状を束ねて一つの原因を言い当てるときにしか使わなかった。給湯室で頭痛薬を流し込んでいた人。顎を食いしばっていた人。そして、一人の患者として視たときの、あの会社。
いま、束ねているのは、症状ではなかった。
痛みが消えたことと、眠れないことと、空腹が無いことと、手の感覚が消えたことと、二十年前の風呂場で泣いたことと、この人が数百万人にそれを配ろうとしていることの、全部だ。
全部の根が、一つだった。
「あなたの身体が止まったのは、あなたが弱かったからでも、この薬が悪だったからでもありません。……あなたが、五年間、痛いと言えなかったからです」
白瀬の目が、少し動いた。
「二十四のあなたに、誰かが聞いていれば。……肩、凝ってませんかって」
透は、鍼を構えた。
打つ場所を探す。指先で、皮膚をなぞる。二十年、何も無かった身体には、目印になるものが何も無い。ツボは動くのではなく、そもそも位置が分からない。
探した。
一分近く、探した。真柴が何か言いかけて、やめた。委員会の誰も、何も言わなかった。
そして、見つけた。
鳩尾の少し下。二十年ぶん蓋をされた場所の、いちばん薄いところ。
細い一本が、音もなく沈む。
最初に来たのは、音だった。
いや、音ではない。透にしか視えない何かが、身体の底で、静かに崩れた。
二十年、平らだった川床が、割れた。
割れ目から、ひと筋。
黒くも、白くもない、ただの流れが、身体のいちばん奥から立ち上がった。細い。生まれたばかりの湧き水のように細い。それが、鳩尾から胸へ、胸から喉へ、ゆっくりと上がっていく。
初めて、この人の身体に、視えるものができた。
白瀬の指が、動いた。
右手だった。二十年、手袋を重ねてきた手が、床の冷たさに、びくりと反応した。
「……あ」
声が、出た。
それから、白瀬の顔が、歪んだ。
微笑ではない。二十年、筋肉で作り続けてきた角度が、崩れた。眉が寄り、口が開き、目が大きく見開かれた。
「……痛い」
白瀬が、言った。
「痛い。……肩が。背中が。……ああ」
声が、震えた。
十九のとき、金属の棚が倒れてきた場所。二十年前、白い粒がひとつめに消した場所。そこが、いま、痛んでいた。
「痛い……」
白瀬の目から、涙が落ちた。
止まらなかった。仰向けのまま、こめかみを伝って、床に落ちていく。四十四の男が、床の上で、声を上げて泣いていた。
「そうか」
泣きながら、白瀬は言った。
「これが……そうか、これが……」
その先を、この人は言葉にできなかった。
言葉にできないまま、右手を持ち上げて、自分の顔を触った。濡れているのが、分かったのだろう。分かったことに、また驚いている。
透は、鍼を抜かずに、そこにいた。
救急のサイレンが、遠くで鳴り始めていた。
「白瀬さん」
「……はい」
「痛いのは、生きてるってことです」
白瀬は、泣きながら、頷いた。
何度も、頷いた。
その日の委員会は、そこで散会した。
三日後、テーミス製薬は承認申請を取り下げた。表向きの理由は「安全性評価項目の再検討のため」。同時に、企業向け共同実証事業の全面停止が発表された。
監査委員会の報告書は、取締役会に二つの勧告を出した。一つは、有害事象の取扱いに関する運用の全面見直し。もう一つは、当該事業の統括責任者の解任である。
御厨は、常務執行役員を解かれた。
あの人が最後にどんな顔をしていたのかを、透は知らない。廊下ですれ違うこともなかった。ただ、退任の社内通知には「一身上の都合」と書いてあったと、あとで聞いた。
それだけだった。
それで、十分だった。
余波は、思わぬところに出た。
その週の週末、クイック整体チェーン「リセット10」の全店の看板が、一斉に架け替わった。
新しい看板には、こうあった。
脱・薬。これからは、自然派・養生の時代です。
涼が、そのポスターの写真を見て、しばらく黙っていた。
「先生」
「はい」
「うち……いえ、あの会社、テーミスとの提携、先月始めたばっかりなんですけど」
「そうでしたね」
「二週間で、看板ごと乗り換えてます」
涼は、スマホを置いた。
「……速いって、こういうことなんですかね」
「痛いのは、生きてるってこと」。この一行を最後の患者に言うために、ここまで来ました。
次回から最終章。湯呑みが、三つになります。




