第70話 月に一度の患者
白瀬が退職したのは、二か月後だった。
入院は三週間で済んだ。二十年ぶんの遮断が切れた身体は、しばらくのあいだ、全部の感覚を一度に取り戻そうとして混乱した。眠れる夜と眠れない夜が交互に来て、食欲が戻り、そして、痛みが戻った。
肩と、背中。十九のときの、あの場所。
薬は、真柴の管理のもとで、時間をかけて減らしている。ゼロにはしない。二十年常用した身体から一気に抜けば、危ない。減らして、様子を見て、また減らす。年単位の作業になる、と真柴は言った。
「痛みは、どうですか」
ブースで、透が聞いた。
白瀬は、患者用の椅子に座っていた。もうスーツではない。セーターの上にコートを羽織って、湯呑みを両手で包んでいる。
「痛いです」
白瀬は、そう答えた。
「毎朝、目が覚めると、肩が痛い。夕方になると、もっと痛い。……正直に申し上げて、しんどいです」
「はい」
「ただ」
白瀬は、湯呑みを少し持ち上げた。
「熱いんです、これが」
その言い方に、透は少し笑いそうになった。笑わないでいるのに、少し力が要った。
「熱いと、分かるんですね」
「分かります。……先月、初めて猫舌だと気づきました。四十四で」
白瀬は、真面目な顔でそう言った。冗談を言っているつもりは、たぶん無い。二十年ぶりに戻ってきた感覚を、この人は一つずつ、驚きながら数えている。
「柊木さん。ひとつ、お伝えしておきたいことが」
「はい」
「私を止めたのは、数字でも、正義でもありませんでした」
白瀬は、湯呑みを机に置いた。
「委員会で、私は勝つつもりでした。あの日の議論も、たぶん、こちらが勝っていた。……あなた方の資料は立派でしたが、あれでは、あと三か月は止まらなかった」
「そうでしょうね」
「止めたのは、鍼一本です。……床の上で、二十年ぶりに肩が痛くなった。それだけのことで、私は、自分が何を配ろうとしていたのかが、初めて分かりました」
白瀬は、そこで少し黙った。
「頭では、ずっと分かっていたつもりでした。だから、あなたに終着点だと言われても、そうかもしれませんね、としか思わなかった。……身体で分かるというのは、全然、別のことでした」
「そうです」
透は、頷いた。
「だから、この仕事は残るんだと思います」
「柊木さん。……ひとつ、図々しいお願いをしてもよろしいですか」
「はい」
「月に一度、こちらへ通わせていただけませんか。……治していただくというより、視ていただきたいんです。私は、自分の身体の言うことを、二十年ぶんまだ聞き取れないので」
「お待ちしてます」
白瀬の月1の予約が、その日から予約表に入った。
備考欄に、涼が書いた。理由:養生のため。
その頃には、ブースの周りの景色が、いくつか変わっていた。
変わったというより、この一年半で蒔いたものが、それぞれの場所で形になっていた、というほうが近い。
蓮見は、三か月の休職を経て、時短で復帰した。
朝は十時から、夕方は四時まで。営業には戻らず、社内の若手向けの研修を担当している。トップだった頃の話をするのかと思ったら、彼が話しているのは「うまく休む方法」だという。
「先生。俺、あの研修、社内でいちばん人気らしいですよ」
月2回の施術のあと、蓮見はそう言って笑った。
「なんでですかね」
「たぶん、みんな、休み方を教わったことがないんです」
三好は、月1の経過観察を続けている。息子とのキャッチボールは、月に一度に落ち着いたらしい。毎週やろうとして、三週目に肩が上がらなくなったのだという。
処方版は、治験の中止に伴って終了した。痛みは、少し戻った。腰の霧は、水平の膜が薄くなって、そのかわり、昔のように多少は暴れている。
暴れている霧は、視える。視えれば、打てる。
「先生、正直に言うと、あの薬のほうが楽でした」
三好は、そう言った。正直な人だった。
「でも、いまのほうが、いいです。痛いと、棚卸しを断れるので」
入江は、相談ルートの案内チラシの二代目を作った。
初代は美咲が書いて、丁寧すぎて読まれなかった。二代目は入江が書いて、A5一枚に、文字が三行しか入っていない。相談件数は、そこからさらに増えた。
岡部は、聴力の再検査を無事に通った。
サポートデスクの体制は、美咲の交渉で、休憩が時間で決まるようになった。鳴っていても、時間が来たら替わる。
「先生。私、いま、電話切ったあと10秒、必ず真顔になってます」
岡部は、そう報告した。
「変な顔してるって、隣の子に言われました。でも、隣の子も真似し始めました」
真面目な顔で10秒黙る人が、いま、あの部署には四人いるらしい。傍から見れば、たぶん奇妙な光景だろう。奇妙な光景のおかげで、あの四人は、貯金を減らさずに済んでいる。
その夕方、ブースの入口に、人が立っていた。
入ってこない。パーテーションの外に、コートを腕にかけたまま、じっと立っている。
通りすがりに二言三言、を四か月やってきた人だった。
「郷原先生」
透が声をかけると、その人は少し咳払いをした。
それから、こう言った。
「……予約は、要るのかね」
全員のその後を、一言ずつ置きました。そして最後に、いちばん長く待った人が入口に立っています。
次回、48話ぶりに「凍った川」の宿題を返します。
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