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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第19章 上流の顔

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第68話 よく効くサンプル

 監査委員会は、本社の十二階で開かれた。


 長机がコの字に並び、委員が五名。テーミス側から、御厨と法務担当と代理人弁護士。参考人側は、真柴、郷原、透、美咲。書記が二人。


 白瀬は、テーミス側の末席にいた。


 議事は、二時間、事実の確認に費やされた。


 二十年前の記録について、代理人は同じ主張を繰り返した。医学的証拠として不十分である。郷原が、症状記載の均質性と地域集積性について説明し、外部委員の一人が「これは疫学的には無視できない形です」と述べた。空気が、少し動いた。


 真柴が、七件の経過を説明した。淡々と、症例ごとに。三件目で、外部委員が資料から顔を上げた。


「この方は、疼痛スコアはずっとゼロですね」


「はい」


「ゼロのまま、休職に至った」


「はい」


「……評価項目の設計に、問題があるということですか」


「私は、そう考えています」


 風向きが、変わりかけた。


 そこで、御厨が発言した。


「委員長。恐れ入りますが、論点を整理させてください」


 静かな声だった。


「本件の申立ては、二つのことを混同しています。ひとつは、二十年前の前身薬に関する疑義。もうひとつは、現行の治験における評価項目の妥当性。……前者は既に製造中止となった別製品の話であり、後者は治験デザインの学術的論点です」


「学術的、とおっしゃると」


「評価項目に何を含めるかは、規制当局との協議で決まります。当社が独断で削っているわけではない。……真柴先生のご提案は貴重ですが、それは審査の過程で議論されるべきもので、コンプライアンスの問題ではありません」


 正しかった。


 半分は。


 だが、その半分の正しさで、議論はきれいに二つに割れ、どちらも「継続審議」の側へ寄っていく。透は、それを見ていた。見ていて、自分に打てる手が無いことも分かっていた。


 ここは、鍼灸師の領分ではない。



 三時間目に入った頃、委員の一人が、こう聞いた。


「長期投与のデータについて、伺いたい。……申請資料には、二十年の投与例が一件、含まれていますね。これは、どういう症例ですか」


 御厨が、答えた。


「前身薬の被験者第1号です。現在も投与を継続しており、重篤な有害事象は認められていません」


「継続中の方が、社内に?」


「はい。……当社の社員です」


 部屋の空気が、変わった。


 外部委員の一人が、眼鏡を直した。


「社員に、二十年間、自社の治験薬を投与している。それを、安全性の根拠にしている。……それは、独立性の観点から、いかがなものでしょう」


 御厨の答えは、早かった。


「本人の希望による継続です。強制ではありません」


「その方は、この場に」


「おります」


 御厨が、末席のほうへ手を向けた。


「白瀬くん。立ってくれるか」


 白瀬が、立った。


 いつもの角度で、微笑んでいた。


「白瀬と申します。前身薬のモニターに参加してから、二十年になります。……私は、この薬に人生を返してもらった人間です。継続は、私の希望です」


 整った答えだった。委員の何人かが、頷いた。


 透は、その身体を視ていた。


 何も、視えない。委員会の三時間、この人の身体には、緊張の霧ひとつ立たなかった。



 議事が終わりに近づいた頃だった。


 委員長が、まとめに入ろうとした。継続審議、という言葉が出かかった。


 そのとき、真柴が発言を求めた。


「一点だけ。……白瀬さんに、伺いたいことがあります」


「参考人からの、参考人への質問は」


「委員長のご許可があれば」


 許可が出た。


 真柴は、白瀬のほうを向いた。医者の顔をしていた。


「白瀬さん。この二十年で、健康診断は受けておられますか」


「毎年、受けています」


「所見は」


「異常なし、が続いています」


「……体重の推移は」


 白瀬が、少し止まった。


「……減っています。十年で、八キロほど」


 部屋が、動いた。


 委員の一人が資料をめくり、御厨が初めて、白瀬のほうへ視線を向けた。


「白瀬くん」


 その声には、警告があった。


 だが、真柴は止まらなかった。


「食欲は、ありますか」


「時間に、摂っています」


「それは、食欲の話ではありません」


「……」


「白瀬さん。あなたは、いま、私の患者ではありません。答える義務はありません。ただ、医師として一つだけ申し上げます。……その状態は、異常なしではない」


 白瀬は、答えなかった。


 微笑は、まだそこにあった。



「委員長」


 御厨が、立ち上がった。


 この人が声を荒らげるのを、透はこの日初めて見た。荒らげたと言っても、声量は上がっていない。ただ、間が無くなった。


「本件と関係のない、個人の健康状態の詮索です。中止を」


「関係あります」


 真柴が言った。


「この方は、御社が申請資料に載せた、唯一の長期投与例です。そのデータの中身を確認しているだけです」


「白瀬くんは、被験者ではない。社員だ」


「では、なぜ申請資料に載っているのですか」


 御厨が、一瞬だけ、詰まった。


 その一瞬に、この人の三十年が入っていた。詰まったことを取り返すために、この人は、いちばん速い手を選んだ。


「載っているのは、有用だからです」


 声が、平坦になった。


「彼は昔から、よく効くサンプルだ。……データとして、最後まで役に立ちたまえ」


 部屋が、凍った。


 書記の手が止まった。委員の一人が、口を開けたまま御厨を見ていた。美咲が、息を呑む音がした。


 白瀬は、微笑んだままだった。


 微笑んだまま、立っていた。


 立っていて。


 膝が、折れた。


 音がしなかった。それが、いちばん怖かった。人が倒れるときには、たいてい何かの音がする。椅子を蹴るとか、机に手をつくとか。白瀬は、何にも触れずに、そのまま床へ落ちた。


「白瀬さん!」


 真柴が、最初に動いた。


 透が、二番目だった。


 白瀬は、目を開けていた。開けたまま、天井を見ていた。呼吸はある。脈もある。


 だが、身体が、動いていなかった。


 透が視た。


 二十年、何も無かったその身体の、いちばん奥。


 そこに、初めて、渦があった。


 黒くもない、白くもない。ただ、行き場を失って、震えている何かが、身体の底で暴れている。二十年ふさがれていた場所が、いま、内側から破れかけていた。


「救急車を!」


 誰かが叫んだ。


 委員が立ち上がり、書記が電話に走り、御厨は、その場から動かなかった。


 喧噪の中で、透は、床に膝をついていた。


 真柴が、脈を取りながら顔を上げた。


「柊木さん。……救急が来るまで、十分はかかります」


 十分。


 透は、鞄を引き寄せた。


「診ます」


 立ち上がろうとした委員に向かって、はっきり言った。


「俺は、この人の身体を、半年間視てきました」

 「よく効くサンプル」。この一言が、二十年ぶんの何かを切りました。

 次回、痛みが帰ってきます。

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