第68話 よく効くサンプル
監査委員会は、本社の十二階で開かれた。
長机がコの字に並び、委員が五名。テーミス側から、御厨と法務担当と代理人弁護士。参考人側は、真柴、郷原、透、美咲。書記が二人。
白瀬は、テーミス側の末席にいた。
議事は、二時間、事実の確認に費やされた。
二十年前の記録について、代理人は同じ主張を繰り返した。医学的証拠として不十分である。郷原が、症状記載の均質性と地域集積性について説明し、外部委員の一人が「これは疫学的には無視できない形です」と述べた。空気が、少し動いた。
真柴が、七件の経過を説明した。淡々と、症例ごとに。三件目で、外部委員が資料から顔を上げた。
「この方は、疼痛スコアはずっとゼロですね」
「はい」
「ゼロのまま、休職に至った」
「はい」
「……評価項目の設計に、問題があるということですか」
「私は、そう考えています」
風向きが、変わりかけた。
そこで、御厨が発言した。
「委員長。恐れ入りますが、論点を整理させてください」
静かな声だった。
「本件の申立ては、二つのことを混同しています。ひとつは、二十年前の前身薬に関する疑義。もうひとつは、現行の治験における評価項目の妥当性。……前者は既に製造中止となった別製品の話であり、後者は治験デザインの学術的論点です」
「学術的、とおっしゃると」
「評価項目に何を含めるかは、規制当局との協議で決まります。当社が独断で削っているわけではない。……真柴先生のご提案は貴重ですが、それは審査の過程で議論されるべきもので、コンプライアンスの問題ではありません」
正しかった。
半分は。
だが、その半分の正しさで、議論はきれいに二つに割れ、どちらも「継続審議」の側へ寄っていく。透は、それを見ていた。見ていて、自分に打てる手が無いことも分かっていた。
ここは、鍼灸師の領分ではない。
三時間目に入った頃、委員の一人が、こう聞いた。
「長期投与のデータについて、伺いたい。……申請資料には、二十年の投与例が一件、含まれていますね。これは、どういう症例ですか」
御厨が、答えた。
「前身薬の被験者第1号です。現在も投与を継続しており、重篤な有害事象は認められていません」
「継続中の方が、社内に?」
「はい。……当社の社員です」
部屋の空気が、変わった。
外部委員の一人が、眼鏡を直した。
「社員に、二十年間、自社の治験薬を投与している。それを、安全性の根拠にしている。……それは、独立性の観点から、いかがなものでしょう」
御厨の答えは、早かった。
「本人の希望による継続です。強制ではありません」
「その方は、この場に」
「おります」
御厨が、末席のほうへ手を向けた。
「白瀬くん。立ってくれるか」
白瀬が、立った。
いつもの角度で、微笑んでいた。
「白瀬と申します。前身薬のモニターに参加してから、二十年になります。……私は、この薬に人生を返してもらった人間です。継続は、私の希望です」
整った答えだった。委員の何人かが、頷いた。
透は、その身体を視ていた。
何も、視えない。委員会の三時間、この人の身体には、緊張の霧ひとつ立たなかった。
議事が終わりに近づいた頃だった。
委員長が、まとめに入ろうとした。継続審議、という言葉が出かかった。
そのとき、真柴が発言を求めた。
「一点だけ。……白瀬さんに、伺いたいことがあります」
「参考人からの、参考人への質問は」
「委員長のご許可があれば」
許可が出た。
真柴は、白瀬のほうを向いた。医者の顔をしていた。
「白瀬さん。この二十年で、健康診断は受けておられますか」
「毎年、受けています」
「所見は」
「異常なし、が続いています」
「……体重の推移は」
白瀬が、少し止まった。
「……減っています。十年で、八キロほど」
部屋が、動いた。
委員の一人が資料をめくり、御厨が初めて、白瀬のほうへ視線を向けた。
「白瀬くん」
その声には、警告があった。
だが、真柴は止まらなかった。
「食欲は、ありますか」
「時間に、摂っています」
「それは、食欲の話ではありません」
「……」
「白瀬さん。あなたは、いま、私の患者ではありません。答える義務はありません。ただ、医師として一つだけ申し上げます。……その状態は、異常なしではない」
白瀬は、答えなかった。
微笑は、まだそこにあった。
「委員長」
御厨が、立ち上がった。
この人が声を荒らげるのを、透はこの日初めて見た。荒らげたと言っても、声量は上がっていない。ただ、間が無くなった。
「本件と関係のない、個人の健康状態の詮索です。中止を」
「関係あります」
真柴が言った。
「この方は、御社が申請資料に載せた、唯一の長期投与例です。そのデータの中身を確認しているだけです」
「白瀬くんは、被験者ではない。社員だ」
「では、なぜ申請資料に載っているのですか」
御厨が、一瞬だけ、詰まった。
その一瞬に、この人の三十年が入っていた。詰まったことを取り返すために、この人は、いちばん速い手を選んだ。
「載っているのは、有用だからです」
声が、平坦になった。
「彼は昔から、よく効くサンプルだ。……データとして、最後まで役に立ちたまえ」
部屋が、凍った。
書記の手が止まった。委員の一人が、口を開けたまま御厨を見ていた。美咲が、息を呑む音がした。
白瀬は、微笑んだままだった。
微笑んだまま、立っていた。
立っていて。
膝が、折れた。
音がしなかった。それが、いちばん怖かった。人が倒れるときには、たいてい何かの音がする。椅子を蹴るとか、机に手をつくとか。白瀬は、何にも触れずに、そのまま床へ落ちた。
「白瀬さん!」
真柴が、最初に動いた。
透が、二番目だった。
白瀬は、目を開けていた。開けたまま、天井を見ていた。呼吸はある。脈もある。
だが、身体が、動いていなかった。
透が視た。
二十年、何も無かったその身体の、いちばん奥。
そこに、初めて、渦があった。
黒くもない、白くもない。ただ、行き場を失って、震えている何かが、身体の底で暴れている。二十年ふさがれていた場所が、いま、内側から破れかけていた。
「救急車を!」
誰かが叫んだ。
委員が立ち上がり、書記が電話に走り、御厨は、その場から動かなかった。
喧噪の中で、透は、床に膝をついていた。
真柴が、脈を取りながら顔を上げた。
「柊木さん。……救急が来るまで、十分はかかります」
十分。
透は、鞄を引き寄せた。
「診ます」
立ち上がろうとした委員に向かって、はっきり言った。
「俺は、この人の身体を、半年間視てきました」
「よく効くサンプル」。この一言が、二十年ぶんの何かを切りました。
次回、痛みが帰ってきます。
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