第67話 申立て
申立書は、四つの束でできていた。
一本目、白石宗玄の記録。二十年前の産業団地における前身薬モニター配布と、二百十一名の共通症状。九月と十一月に会社へ送付され、返信の無かった書留の控え。
二本目、真柴玲の保全データ。処方版治験における七例の有害事象と、その削除を求めた本社からの整備要請。
三本目、郷原秀一の症例報告。産業医としての蓮見の経過と、疼痛スコア良好のまま進行した機能低下の記録。
四本目、小林美咲の企業側実害集計。メビウスソフト一社における、痛みスコアの下降と欠勤・離職の実数の乖離。声を上げられた数の裏側で拾い上げた、二十件の業務調整と、それが遅れた場合に何が起きたかの記録。
二十年前と、いま。医療の側と、職場の側。
四本を束ねて、透はその厚みを両手で持った。
思ったより、重かった。
「監査委員会は、来月です」
真柴が、スピーカー越しに言った。
「外部委員が三名、社内委員が二名。私は治験実施施設の元責任医師として、参考人で出ます」
「反応は」
「早いです。受理から三日で開催決定は、たぶん記録的です。……つまり、委員会は、これを社内で処理すべきでないと判断したということです」
「向こうは」
美咲が聞いた。
「もう、動いてます」
御厨の反撃は、三方向から同時に来た。
一つ目は、証拠能力だった。テーミス側の代理人からの書面が、委員会に提出されている。二十年前の記録は、公的資格を持たない施術者による私的なメモであり、診断名も検査値も無い。医学的証拠として採用すべきでない、と。
「予想どおりです」
郷原が、書面を読みながら言った。
「ただし、この主張には穴があります。彼らは『証拠能力が無い』と書いているが、『そんな手紙は受け取っていない』とは書いていない。……受け取っていないなら、まずそう書くはずです」
「じゃあ」
「二十年前の書留は、たぶん、社内のどこかに残っています」
二つ目は、真柴への圧力だった。
治験契約の解除だけでは終わらなかった。テーミスの代理人が、契約上の守秘義務違反の可能性について書面を送ってきた。保全した症例データを外部へ持ち出したのは、契約違反にあたる、と。
「痛くも痒くもありません」
真柴の声は、乾いていた。
「症例は患者のものです。私は原資料を施設に保全しただけで、外部に渡したのは、患者本人の同意を取った範囲の要約です。……彼らも、それは分かっています。分かっていて送ってくるのは、私に弁護士費用を使わせるためです」
「大丈夫なんですか」
「弁護士は、患者だった方に紹介していただきました。……十年、痛みを気のせいと言われ続けた方でした。『先生に返す番だ』と言われて、断れませんでした」
三つ目は、委員会そのものへの働きかけだった。
外部委員のうち一名が、開催の四日前に「日程の都合」で辞任した。後任は、テーミスと顧問契約のある法律事務所からの推薦だという。
「露骨ですね」
「露骨ですが、合法です」
郷原は、そう言った。
「ここまでは、想定の範囲です。……問題は、私たちの側に、決定打が無いことです」
全員が、黙った。
四本の束は、確かに強い。だが、どれも「これはおかしい」と示す資料であって、「これは危険だ」と誰の目にも分かる形にはなっていない。
委員会は、たぶん、こう結論する。追加の調査を要する。継続審議。
そのあいだに、承認申請は進む。
開催の前日、透は本社ビルの廊下で、御厨とすれ違った。
偶然ではなかったと思う。あの人は、偶然の場所に立たない。
「柊木さん」
「……お世話になります」
「明日は、参考人でご出席とか」
「はい」
御厨は、書類の入った革の鞄を提げていた。相変わらず、上等なものを上等に見せない着かたをしている。
「ひとつ、うかがっても」
「どうぞ」
「あなたは、あの薬を無くしたいのですか。それとも、あの薬の使い方を変えたいのですか」
いい質問だった。この人は、いつも急所を先に聞く。
「……使い方です」
「では、我々は敵ではない」
「いえ」
透は、そこは譲らなかった。
「使い方を変えるためには、消された七件を戻さないといけません。それを消したのは、あなたです」
御厨は、ほんの少しだけ笑った。笑うと、意外に人のいい顔になる人だった。
「柊木さん。私は、薬を売っています。売れば、金が入る。金が入れば、次の薬を作れる。次の薬で、また誰かが救われる。……この循環を回すのが、私の仕事です」
「その循環の中で、七件は」
「損失として計上されます」
迷いが無かった。
「損失を出さない事業はありません。損失をゼロにしようとすれば、事業そのものが止まる。止まれば、次の薬は生まれない。……この計算を、あなたは間違っていると言えますか」
白瀬と、同じ言い方だった。
いや、違う。白瀬のそれには、二十年前の風呂場があった。この人のそれには、何も無い。あるのは、循環だけだ。
御厨は、そこで鞄を持ち直した。
「鍼一本で、株主と戦うおつもりですか」
そう言って、廊下を歩いていった。
透は、その背中を視た。
視えた。
この人の身体には、霧がある。首の後ろに、硬く、まっすぐな一本の筋が通っている。二十年か三十年、同じ方向を向き続けた人の霧だった。
視えるということは、まだ、流れがあるということだ。
透は、そのことを、なぜか少しだけ覚えておこうと思った。
四本の弾は揃いました。ただ、決定打がまだありません。
次回、憎悪が頂点まで行って、そこで何かが決壊します。




