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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第19章 上流の顔

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第66話 最後に眠ったのは

 透は、ひとつだけ聞くことにした。


 議論では、この人に勝てない。二十年ぶんの実感を持っている相手に、論理で勝てるはずがない。


 だから、鍼灸師として聞いた。


「白瀬さん」


「はい」


「最後に眠ったのは、いつですか」


 白瀬の指が、湯呑みの縁で止まった。


「……眠り、ですか」


「はい」


「毎晩、寝ています。ベッドに入って、目を閉じて、朝になれば起きます」


「それは、横になっている時間の話ですよね」


 透は、そこを追った。追いながら、自分の声が診療のときの声になっているのに気づいた。


「眠くなって、寝る。起きたら、眠ったなと思う。……その感じは、最後にいつありました」


 白瀬は、答えなかった。


 答えなかったのは、はぐらかしたのではない。探していた。記憶の中を、実際に探しているのが、間の長さで分かった。


「……分かりません」


 やがて、そう言った。


「思い出せません。眠くなる、という感覚が、いつからか無いんです。時間が来たら横になって、時間が来たら起きます。夢は、たぶん見ていません」


「食事は」


「時間に、摂ります」


「お腹が空くのは」


「……ずいぶん、無いですね」


 透は、湯呑みに手を伸ばして、白瀬の前のそれに触れた。


 まだ、少し温かかった。


「これ、熱かったですか」


「熱いと、思いました。目で見て、湯気が立っていたので」


「手のひらでは」


「……分かりません」


 白瀬は、自分の右手を持ち上げた。指を、ゆっくり開いて、閉じた。


「動きます。物も持てます。ただ、持っている感じが、年々薄くなっている。手袋を一枚ずつ、増やしていくような具合です。……最近は、切っても、あまり」


 その先は、言わなかった。言わなくても、透には視えていた。右手の指の腹に、治りかけの細い傷が三つある。


「白瀬さん」


「はい」


「あなたは、薬の未来じゃない」


 白瀬が、こちらを見た。


「……と、おっしゃると」


「終着点です」


 透は、はっきり言った。


「痛みが消えて、だるさが消えて、そのうちに、眠気も、空腹も、熱も消える。……あなたの身体は、痛みだけを止めたんじゃない。生きている感じそのものが、少しずつ止まっています」


「私は、生きていますよ」


「生きています。だから、余計に厄介なんです」


 透は、自分の湯呑みを置いた。


「死んでいれば、誰かが気づきます。倒れれば、救急車が来ます。……あなたは、倒れないまま、二十年かけて、静かに消えかけている。それを、誰も止められない。あなた自身も、止まっている感覚が無いので、気づけない」


 白瀬は、微笑を戻していた。


 いつもの角度だった。ただ、その微笑が、いま透には別のものに見えた。あれは、余裕ではない。二十年、表情を筋肉で作り続けてきた人の、習慣だ。


「柊木さん。ひとつ、うかがっても」


「はい」


「あなたは、私に、どうしろとおっしゃるんです。……いまさら、薬をやめろと? 五年間『気のせい』と言われた人間に、あの五年に戻れと」


「言いません」


 透は、即答した。


「戻れとは、言いません。……ただ」


「ただ?」


「あなたがいま歩いているところが、どこなのかは、知っておいてください」


 白瀬は、しばらく黙った。


 それから、立ち上がった。


「お茶、ありがとうございました。……次の予定がありますので」


「白瀬さん」


「はい」


「あなたが配ろうとしている四十万人の中に、あなたご自身は入っていない。……前に、そうお聞きしました。あのとき、答えていただけませんでしたね」


 白瀬は、ドアノブに手をかけた。


 かけて、少し止まった。


「入っていますよ」


 静かな声だった。


「私は、第1号です。……いちばん最初から、入っています」


 ドアが閉まった。


 白瀬は、ドアノブの冷たさに気づかないまま、廊下を歩いていった。


 残された湯呑みには、茶が半分残っていた。


 透は、それを片づけずに、しばらく机に置いたままにした。飲みかけの湯呑みというのは、また来る人のものだ。そう思うことにした。



 同じ日の夕方、テーミス製薬の役員応接室。


 御厨は、申請資料の最終ドラフトをめくっていた。白瀬は、その斜め前に座っていた。


「白瀬くん。長期投与の安全性データが薄い。委員会も、そこを突いてくる」


「はい」


「二十年の投与例が、社内にひとつある」


 御厨は、顔を上げなかった。ページをめくる手も、止めなかった。


「申請の最終データに、君のも入れる。……被験者第1号として、二十年分の」


 白瀬は、答えなかった。


「よく効いたサンプルだ。使わない手はない」


 御厨は、そこで初めて顔を上げた。悪意は無い。侮蔑も無い。ただ、目の前にあるものを、有用な資源として正確に評価している目だった。


「君のおかげで、あの薬は世に出る。誇っていい」


 二十年前、この会社に入るとき、白瀬は面接でこう言った。この薬を、あのときの自分と同じ人間に届けたい、と。面接官は感心して、彼を採った。


 あれから、届けた先は数え切れない。


 ただ、届けるという言葉と、データとして使われるという言葉が、今日、同じ一つのものだったことが分かった。


「……ありがとうございます」


 白瀬は、そう答えた。


 答えたときの自分の声が、どんな高さだったのか、彼には分からなかった。

 「あなたは、薬の未来じゃない。終着点だ」。そして上流は、その終着点をデータとして使うと言いました。

 次回から第23章。第2部のクライマックスです。

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