第66話 最後に眠ったのは
透は、ひとつだけ聞くことにした。
議論では、この人に勝てない。二十年ぶんの実感を持っている相手に、論理で勝てるはずがない。
だから、鍼灸師として聞いた。
「白瀬さん」
「はい」
「最後に眠ったのは、いつですか」
白瀬の指が、湯呑みの縁で止まった。
「……眠り、ですか」
「はい」
「毎晩、寝ています。ベッドに入って、目を閉じて、朝になれば起きます」
「それは、横になっている時間の話ですよね」
透は、そこを追った。追いながら、自分の声が診療のときの声になっているのに気づいた。
「眠くなって、寝る。起きたら、眠ったなと思う。……その感じは、最後にいつありました」
白瀬は、答えなかった。
答えなかったのは、はぐらかしたのではない。探していた。記憶の中を、実際に探しているのが、間の長さで分かった。
「……分かりません」
やがて、そう言った。
「思い出せません。眠くなる、という感覚が、いつからか無いんです。時間が来たら横になって、時間が来たら起きます。夢は、たぶん見ていません」
「食事は」
「時間に、摂ります」
「お腹が空くのは」
「……ずいぶん、無いですね」
透は、湯呑みに手を伸ばして、白瀬の前のそれに触れた。
まだ、少し温かかった。
「これ、熱かったですか」
「熱いと、思いました。目で見て、湯気が立っていたので」
「手のひらでは」
「……分かりません」
白瀬は、自分の右手を持ち上げた。指を、ゆっくり開いて、閉じた。
「動きます。物も持てます。ただ、持っている感じが、年々薄くなっている。手袋を一枚ずつ、増やしていくような具合です。……最近は、切っても、あまり」
その先は、言わなかった。言わなくても、透には視えていた。右手の指の腹に、治りかけの細い傷が三つある。
「白瀬さん」
「はい」
「あなたは、薬の未来じゃない」
白瀬が、こちらを見た。
「……と、おっしゃると」
「終着点です」
透は、はっきり言った。
「痛みが消えて、だるさが消えて、そのうちに、眠気も、空腹も、熱も消える。……あなたの身体は、痛みだけを止めたんじゃない。生きている感じそのものが、少しずつ止まっています」
「私は、生きていますよ」
「生きています。だから、余計に厄介なんです」
透は、自分の湯呑みを置いた。
「死んでいれば、誰かが気づきます。倒れれば、救急車が来ます。……あなたは、倒れないまま、二十年かけて、静かに消えかけている。それを、誰も止められない。あなた自身も、止まっている感覚が無いので、気づけない」
白瀬は、微笑を戻していた。
いつもの角度だった。ただ、その微笑が、いま透には別のものに見えた。あれは、余裕ではない。二十年、表情を筋肉で作り続けてきた人の、習慣だ。
「柊木さん。ひとつ、うかがっても」
「はい」
「あなたは、私に、どうしろとおっしゃるんです。……いまさら、薬をやめろと? 五年間『気のせい』と言われた人間に、あの五年に戻れと」
「言いません」
透は、即答した。
「戻れとは、言いません。……ただ」
「ただ?」
「あなたがいま歩いているところが、どこなのかは、知っておいてください」
白瀬は、しばらく黙った。
それから、立ち上がった。
「お茶、ありがとうございました。……次の予定がありますので」
「白瀬さん」
「はい」
「あなたが配ろうとしている四十万人の中に、あなたご自身は入っていない。……前に、そうお聞きしました。あのとき、答えていただけませんでしたね」
白瀬は、ドアノブに手をかけた。
かけて、少し止まった。
「入っていますよ」
静かな声だった。
「私は、第1号です。……いちばん最初から、入っています」
ドアが閉まった。
白瀬は、ドアノブの冷たさに気づかないまま、廊下を歩いていった。
残された湯呑みには、茶が半分残っていた。
透は、それを片づけずに、しばらく机に置いたままにした。飲みかけの湯呑みというのは、また来る人のものだ。そう思うことにした。
同じ日の夕方、テーミス製薬の役員応接室。
御厨は、申請資料の最終ドラフトをめくっていた。白瀬は、その斜め前に座っていた。
「白瀬くん。長期投与の安全性データが薄い。委員会も、そこを突いてくる」
「はい」
「二十年の投与例が、社内にひとつある」
御厨は、顔を上げなかった。ページをめくる手も、止めなかった。
「申請の最終データに、君のも入れる。……被験者第1号として、二十年分の」
白瀬は、答えなかった。
「よく効いたサンプルだ。使わない手はない」
御厨は、そこで初めて顔を上げた。悪意は無い。侮蔑も無い。ただ、目の前にあるものを、有用な資源として正確に評価している目だった。
「君のおかげで、あの薬は世に出る。誇っていい」
二十年前、この会社に入るとき、白瀬は面接でこう言った。この薬を、あのときの自分と同じ人間に届けたい、と。面接官は感心して、彼を採った。
あれから、届けた先は数え切れない。
ただ、届けるという言葉と、データとして使われるという言葉が、今日、同じ一つのものだったことが分かった。
「……ありがとうございます」
白瀬は、そう答えた。
答えたときの自分の声が、どんな高さだったのか、彼には分からなかった。
「あなたは、薬の未来じゃない。終着点だ」。そして上流は、その終着点をデータとして使うと言いました。
次回から第23章。第2部のクライマックスです。




