第64話 名簿の最初の名前
白瀬という姓は、珍しい。
名簿の一行目を見つけてから、照合に三日かかった。
二十年前、東部産業団地の事業所勤務。当時二十四歳。年齢を足すと、いまは四十四になる。テーミス製薬の担当者として名刺を出してくる、あの男の見た目と、齟齬は無かった。
「入社年次も合います」
美咲が、法務経由で取り寄せた企業情報の写しを見ながら言った。
「テーミス製薬に入ったのは、十七年前。それより前の職歴は、公開情報には出ていません。……ただ、新卒の年次ではないです。二十七歳での中途入社」
「二十四で薬をもらって、二十七で、その会社に入った」
「はい」
三年ある。
その三年に何があったのかは、書類には出てこない。
「もうひとつ、気になることが」
美咲が、別の紙をめくった。
「テーミスの社内報のバックナンバーです。十年前の号に、この人のインタビューが載ってます。……新製品の開発秘話みたいな記事なんですけど、一行だけ、変なところがあって」
「どこです」
「『私は、この薬に人生を返してもらった人間です』。……製薬会社の社員が、自社の薬について書く言葉じゃないですよね。ふつう、届けたい、とか、貢献したい、とか書くはずで」
返してもらった。
その言い方は、作った側の言葉ではない。飲んだ側の言葉だった。
定例訪問の日程は、月末に組まれていた。
テーミス製薬の担当者は、いまもメビウスソフトに来る。共同実証事業の交渉は法務で止まっているが、ヘリオス経由の既存契約が残っているためだ。担当者は、変わっていなかった。
その日、白瀬はいつもどおり十分前に来て、いつもどおり穏やかに受付を済ませ、いつもどおり総務での用件を終えた。
帰り際に、ブースの前を通った。
通り過ぎるはずだった。
「白瀬さん」
透が、声をかけた。
白瀬が、足を止めた。
「柊木さん。お久しぶりです。……あの日は、失礼しました。ずいぶん、意地の悪いことを申し上げた」
「いえ」
「お加減を聞いてくださったのに、私はお答えしなかった」
やはり、覚えていた。
透は、ブースの中を示した。涼は席を外させてある。美咲も来ない。この十分は、二人だけのために空けてあった。
「少しだけ、お時間をいただけますか」
「……何のご用でしょう」
「お茶を出します。それだけです」
白瀬は、椅子に座った。
座り方が、きれいだった。背もたれを使わず、膝を揃えて、手を膝の上に置く。岡部の座り方に少し似ている、と透は思った。ただ、岡部の背すじには緊張があった。この人のそれには、何も無い。
湯呑みを出した。
白瀬は、両手で受け取った。受け取って、そのまま、机に置いた。
「熱いですね」
「熱いです」
「……といっても、私には、そう分かりません。手のほうが、あまり」
初めて、この人が自分の身体の話をした。
透は、そこには乗らなかった。乗るには、まだ早い。机の引き出しから、一枚の紙を出した。
二十年前の名簿の写しだった。
「白瀬さん。この名簿に、あなたの名前があります」
部屋の空気が、動かなくなった。
白瀬は、紙を見た。見て、それから、視線を上げなかった。名前の書かれた一行目を、長いあいだ見ていた。
微笑が、消えていた。
この人の顔から微笑が消えたのを、透はこれまで一度も見たことがない。半年前のロビーでも、表彰式の会場でも、この人はずっと同じ角度で微笑んでいた。
いま、その顔には、何も乗っていなかった。
透は、待った。
視えん時は、視るな。待て。師の言葉を、この場面のために覚えていたような気さえした。
時計の秒針の音が、十いくつ。
「……この字は」
やがて、白瀬が言った。
「若い字ですね」
「はい」
「隣の注記のほうが、年上の字だ。……お書きになったのは」
「白石宗玄。俺の師匠です」
白瀬の指が、紙の上をわずかに動いた。触れはしなかった。触れる寸前で、止まった。
「白石。……ああ」
息が、こぼれた。
ため息でも、笑いでもなかった。二十年ぶんの何かが、喉を通って出てきた音だった。
「あの、格子戸の」
「ご存じでしたか」
「一度だけ、伺いました」
白瀬は、そこで初めて、透のほうを見た。
「二十年前です。手が震えると言って、行きました。……薬をやめたら震えが来る、と話したら、あの先生は、私の背中に鍼を一本打って、それから、お茶を出してくださった」
透の指先が、冷たくなった。
あの二年の、二百十一人。その中に、この人が座っていた。同じ待合の、同じ木のベンチに。
「……なぜ、続けられたんですか」
「何をです」
「薬です。あの日、あの人に診てもらったのなら」
「効いたからです」
白瀬は、静かに言った。
「あの先生の鍼も、効きました。三日、楽でした。……ですが、薬は、その日から効きました。飲めば、痛みが消えた。三日ではなく、その日から、ずっと」
言葉が、続かなかった。
白瀬は、湯呑みを見た。触れずに、見ていた。湯気は、もうほとんど立っていない。
「柊木さん。……ようやく、辿り着かれましたか」
否定しなかった。
この人は、二十年間、隠していたことを、隠すのをやめた。
「聞いていただけますか」
白瀬は、そう言った。
「私が、なぜこの薬を信じているのか」
名簿の一行目が、あの人でした。しかも、あの格子戸をくぐったことがあったのです。
次回、白瀬さんが全部話します。
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