第63話 遺された下書き
誰も、慰めなかった。
それがいちばんありがたかった、とあとで透は思う。美咲は涙を拭いて、鼻をすすって、それから紙の山に向き直った。涼は湯呑みを洗いに立つ。郷原は、目を開けて、カルテの束をひとつ手に取った。
「柊木さん」
郷原が言った。
「この二年ぶんは、証拠になります」
「はい」
「症状の記載が均質です。手の震え、不眠、無感動、離脱時の増悪。同一地域、同一時期、同一の曝露源。……これだけの数が一箇所に集まった記録は、たぶん国内に他に無い」
郷原は、束をめくりながら、産業医の声に戻っていた。
「ただし、私的な診療録です。委員会は証拠能力を争ってくるでしょう。相手の弁護士なら、まず『個人の鍼灸院のメモ』と言います」
「じゃあ、弱いんですか」
涼が聞いた。
「弱くはない。ただ、これ単独では足りない。……当時、この状況を誰かが会社側に伝えていた記録があれば、話が変わります。伝えた、しかし対応されなかった。それが残っていれば、テーミスは『知らなかった』と言えなくなる」
伝えた記録。
透は、そこで初めて、思い出した。
「……物置の、いちばん奥に」
「はい?」
「木の箱があります。カルテを片づけたとき、重くて動かせなかったので、そのままにしてあります」
箱は、押し入れの奥の、カルテの山の下にあった。
四人がかりで束をどけて、引き出した。桐ではない、ただの木箱だった。蓋に埃が三ミリ積もっていて、涼が拭くと、下から木目が出てきた。
開けると、書類が入っていた。
いちばん上は、便箋だった。白石の字だ。カルテの字より、ずっと丁寧に書いてある。何度も書き直したのだろう、同じ書き出しの便箋が、五枚重なっていた。
美咲が、いちばん上の一枚を読み上げた。
「……前略。私は、東部産業団地にて鍼灸院を営む、白石宗玄と申します。貴社が昨年より当地の事業所を通じて配布されている試験用の鎮痛薬について、施術の現場から申し上げたいことがあり、筆を執りました」
美咲の声が、少し掠れた。
「本年四月以降、当院を訪れる患者に、共通する症状が現れております。手の震え、著しい不眠、意欲の減退、そして服用を中断した際の急激な増悪です。私は医師ではありませんので、医学的な原因を申し上げる立場にありません。ただ、四十年この土地で人の身体を診てまいりました者として、この共通性は偶然ではないと考えます」
次の便箋を、美咲がめくった。
「つきましては、配布を受けた方々の追跡調査を、貴社にてお願いできませんでしょうか。私の手元には、本年四月から本日までの、二百十一名分の記録がございます。ご入用であれば、いつでもお示しいたします。……」
二百十一名。
白石は、その数を数えていた。二十八人の日にも、夜に一人で数えていたのだ。
「日付は」
郷原が聞いた。
「二十年前の、九月です」
「送った形跡は」
美咲が、箱の中を探った。書きかけの便箋が五枚、清書らしきものが一枚。そして、その下に。
「……あります。控えの、コピーが」
簡易書留の控えだった。宛先は、テーミス製薬株式会社。日付は、便箋と同じ月。
そして、その裏に、白石の字で一行。
「返信、無し。十一月、再送。返信、無し。」
誰も、次の言葉を出さなかった。
いや、静かではなかった。四人とも、息をしている。誰かの息が、少し荒くなっていた。
透は、その控えを手に取った。
「あの人は」
声が、うまく出なかった。
「……戦ってたんですね」
二十年前、一人で二十八人を診ながら、夜に便箋を五枚書き直して、返事の来ない手紙を二度送った老人が、ここにいた。
透が知っている白石は、毒舌で、面倒くさがりで、「わしにも余裕なんぞ無かった」と笑う人だった。その人が、こんなに丁寧な字で、こんなに低い姿勢の文章を書いている。
鍼灸師が製薬会社に手紙を出しても、届かないことは分かっていたはずだ。分かっていて、二度出した。
「……俺は、この人に、何も聞かなかった」
透は、控えを両手で持ったまま、そう言った。
「聞いていれば、この手紙のことを、俺は知っていた。知っていれば、三通目を、俺が書けた」
「先生」
涼が、言った。
いつもの遠慮がちな声ではない。もっと、はっきりした声だった。
「なら、僕らが出しましょう」
透が、顔を上げた。
「三通目です。今度は、届く形にして。……委員会に、出しましょう」
涼は、木箱の中の便箋を、丁寧に揃えていた。
「今度は、間に合ううちに」
その夜、四人は箱の中身を全部、床に並べた。
便箋の下からは、二百十一名分の記録の写しが出てきた。名前は伏せ字になっていて、年齢、性別、勤務先の種別、初診日、症状、経過だけが書いてある。他人に見せる前提で、白石が自分で作り直したものだった。
いちばん下に、一枚の紙があった。
罫線の入った便箋に、名前だけが並んでいる。表題は無い。ただ、頭に「配布を受けた方(当院来院分)」と書いてある。
美咲が、その紙を持ち上げた。
持ち上げて、いちばん上の行で、動きが止まった。
「……先生」
「どうしました」
「この、いちばん最初の名前」
美咲が、紙をこちらに向けた。
二十年前の便箋の、二百十一人の名簿。その一行目に、若い字で、こう書いてある。
白瀬。二十四歳、男性。当地事業所勤務。初回配布、第一次。
その横に、白石の字で、短い注記があった。
「被験者、第1号」
二十年前の手紙が、三通目を待っていました。そして名簿の一行目に、あの人の名前があります。
次回から第22章。白い粒の底が見えます。ここまで追ってくださった方、ブックマークと感想をいただけたら、それが次の章の燃料になります。




