第62話 言えなかった一言
俺がここへ来たのは、二十二の冬でした、と透は話し始めた。
畳の上に紙を広げたまま、四人はそこに座っていた。誰も動かなかった。
当時、透は工場で働いていた。三交替の現場で、高校を出てすぐ入って四年目、いちばん若い班長として、断り方を知らないまま人の仕事を引き受けた。腰と肩がだめになって、市販の薬を飲んだ。効かなくなって、量を増やした。
増やしても効かなくなった頃には、朝の起き方が分からなくなっていた。
仕事を失い、部屋を失い、歩けなくなって、たまたま辿り着いた角地の家の前に座り込んだ。それが、この格子戸の前だった。
白石は、その男を家に入れて、粥を出した。三日目に、鍼を覚える気はあるかと聞いた。
「……そこまでは、前に少し話しました」
美咲が、頷いた。
「話してないのは、そのあとです」
弟子入りして、六年が過ぎた。
白石は、七十を越えていた。腕は落ちていなかったが、身体は落ちていた。階段を上るとき、二段目で一度止まる。湯呑みを持つ手が、朝はうまく開かない。
透は、その頃には、望神が使えるようになっていた。
人の霧が視えた。師の霧も、視えていた。
白石の胸の中央に、拳ほどの黒い霧があった。動きが鈍く、脈に合わせて重く沈む。あれは心臓の霧だと、いまなら分かる。当時も、たぶん分かっていた。
分かっていて、透は問わなかった。
「なぜです」
涼が、聞いた。責める調子ではなく、ただ理解できないという顔だった。
「先生なら、視えた瞬間に、患者さんには聞きますよね。肩、凝ってませんかって」
「聞きます」
「じゃあ、なんで」
「師匠だったからです」
透は、そう言った。
「あの人は、俺を拾って、教えて、飯を食わせた人です。……俺の中で、あの人は、倒れる側の人間じゃなかった。診る側の人だった。診る側の人に、あなたの身体が悪いですよ、と言うのは、なんというか」
言葉を探して、透は少し黙った。
「失礼な気がしたんです。……それと、怖かった」
「怖い」
「聞いて、そうだと言われたら、どうすればいいのか分からなかった。俺には、あの人を治す腕がまだ無かった。無いのに聞いたら、聞いただけになる。……だから、師匠だから大丈夫だ、と思うことにしました」
畳の上で、涼の手が、膝の上で固く握られた。
「思うことにした、というのは、思っていなかったということです」
透は、正直に言った。
「視えていました。毎日、視えていました。視えているのに、俺は、一度も聞かなかった」
二年ぶんのカルテの山が、その頃、この治療院にできた。
産業団地に、白い錠剤が配られた年だった。
最初の患者は、三月の終わりに来た。手が震える、と言った。眠れない、とも。工場でもらった薬をやめたら、それが始まったのだという。
白石は、その患者を診て、それから、同じ症状の人間が次の週に三人来たとき、何が起きているかを理解した。
そこからの二年を、あの人は一人で受けた。
紹介できる病院が無かったわけではない。ただ、当時は「そういう薬は無かったこと」になっていた。無償のモニター配布は記録に残らず、患者は「工場でもらった薬」としか言えず、病院では原因不明の不定愁訴として扱われた。
だから、あの人のところに集まった。
一日二十八人。所見一行。
朝、格子戸を開けると、もう人が並んでいたという。閉めるのは夜の十時を回ってから。それが、二年。
「そのあいだに、あの人の胸の霧は、たぶん倍になっています」
透は、カルテの束に手を置いた。
「俺が拾われたのは、その十年後です。だから俺は、この二年を見ていない。……見ていないのに、その結果だけを、毎日視ていたんです」
雨の夜だった。
透が二十八になる、少し前。夜の八時過ぎに電話が鳴って、近所の人が、白石先生が倒れていると言った。
透は走った。
電車で一時間半の距離を、走れるはずがない。それでも、駅までの道を走った。走りながら、頭の中でずっと同じことを考えていた。
視えていた。
三日前も視えた。一週間前も視えた。あのとき、聞いていれば。
肩、凝ってませんか。
その一言でよかった。あの人は、そう聞かれれば、たぶん鼻を鳴らして笑って、それから「実はな」と言う。聞かれないことは言わないが、聞かれれば答える。そういう人だった。
誰も、聞かなかった。
二十八人の背中に鍼を打った人に、どこか痛くありませんかと聞いた人間が、この二年で一人もいない。
いちばん近くにいたのは、俺だ。
「……間に合いませんでした」
透は、そう言った。
声は、乱れていなかった。四年、この話をするための準備をしていたわけではない。ただ、この四年、毎日その一言を言い直してきたから、口が覚えているだけだった。
「病院に着いたときには、もう。……最後に何か言いたそうにしていた、と看護師さんに言われました。何を言おうとしていたのかは、分かりません」
部屋が、静かだった。
美咲が、両手を膝の上で重ねたまま、動かなかった。涼は、湯呑みの棚のほうを見ていた。郷原は、目を閉じていた。
「それで」
透は、続けた。
「だから俺は、初対面の人に、必ず聞くんです」
顔を上げた。
「肩、凝ってませんか、って」
美咲の肩が、大きく動いた。
「……あの日、あの人に言えなかった一言の、代わりに」
美咲の目から、涙が落ちた。
彼女は、それを拭かなかった。拭くことも思いつかない顔で、透を見ていた。
一年前の春、フロアの給湯室で、頭痛薬をコーヒーで流し込んでいた自分に、この人はそう声をかけた。あのとき、なんて馴れ馴れしい人だろうと思った。挨拶みたいなものだと思った。
挨拶では、なかったのだ。
あれは、この人が四年間、毎日繰り返している、間に合わなかった一人への詫びだった。その詫びを、この人は目の前の全員に配っている。二度と、聞かないまま失わないために。
「先生」
美咲が、やっと声を出した。
「私、あのとき、大丈夫ですって答えました」
「はい」
「大丈夫じゃなかったです」
「知ってました」
透は、少し笑った。
「大丈夫じゃない人ほど、大丈夫って言うんです。……だから、二回聞くんですよ、俺は」
第1話の「肩、凝ってませんか?」の意味が、今日、変わったと思います。
次回、物置のいちばん奥で、重くて動かせなかった木の箱を開けます。二十年前の手紙が、まだそこにあります。




