第61話 治療院跡
監査委員会に申立てをする、と最初に言ったのは真柴だった。
テーミス製薬の社内には、独立した監査委員会がある。外部委員を含む機関で、コンプライアンス上の重大な疑義が持ち込まれた場合、調査を行い、取締役会に勧告できる。真柴が保全した七例の記録は、そこへ持ち込む価値がある、と彼女は言った。
「ただし、現在の症例だけでは弱い」
その夜、ブースに集まったのは四人だった。透、美咲、郷原、そして涼。真柴はスピーカー越しに参加していた。
「七例は、いずれも治験中の事象です。因果関係を否定できない、というところまでしか言えません。委員会は、それを『現場の判断の違い』として処理できてしまう」
「必要なのは」
郷原が引き取った。
「同じことが、過去にも起きていたという証拠です。前身薬の時代に、同じ構造の被害が出ていた。それを会社が知っていた、あるいは知り得たという記録があれば、これは判断の違いではなく、繰り返しになる」
繰り返し。
その言葉が出た瞬間、透は自分の膝の上で、手が固くなるのを感じた。
「二十年前です」
全員が、透を見た。
「前身薬のモニター配布があったのは、二十年前。場所は、東の産業団地。……記録を持っている人を、俺は一人だけ知っています」
「どなたです」
「亡くなりました。……俺の、師匠です」
白石宗玄の治療院は、その産業団地の外れにあった。
電車を乗り継いで一時間半、駅から歩いて二十分。角地の古い平屋で、格子戸に「白石鍼灸院」の木札が、いまも掛かっている。
鍵は、透が持っていた。四年、返さなかった。管理料だけを毎年払って、そのままにしてある。
「先生、ここに、ずっと」
「月に一度、風を入れに来てました。……最近は、来られていません」
格子戸は、少し力を入れると開いた。
埃の匂いがした。埃と、古い畳と、かすかに、乾いた薬草の匂い。
美咲が、小さく息を吸うのが聞こえた。涼は、上がり框のところで立ち止まったまま、動かなかった。
中は、あの日のままだった。
六畳の待合に、木のベンチがひとつ。奥に施術室があって、ベッドが二台。窓際に、鍼を並べるための細長い作業台がある。台の木肌は、真ん中だけが色が濃い。
「ここ、白石先生がいつも座ってた場所です」
透が言うと、涼が近づいて、その色の濃い部分を見た。
「……擦れてる」
「四十年です」
その台の端に、湯呑みの棚がある。老人が使っていた欠けた湯呑みが、伏せたまま残っていた。
透は、それを取って、埃を払った。
「今日、洗います。使えるので」
カルテは、待合の裏の物置に積んであった。
紙のカルテだった。年ごとに紐で括られて、天井近くまで積み上がっている。透が最後にここを片づけたとき、量に負けて手をつけられなかった山だ。
「一年分ずつ、見ましょう」
美咲が、いちばん最初にしゃがみ込んだ。推進室の仕事で、彼女は書類の山と戦うことに慣れていた。
二十年前の束を探し当てるのに、三十分かかった。
紐を解いて、日付順に並べる。四人で床に広げていくと、部屋の畳が、だんだん紙で埋まっていった。
最初の異変に気づいたのは、涼だった。
「先生。……これ、変です」
「どうしました」
「三月までは、一日に四人か五人なんです。多くて七人。それが」
涼が、束をめくった。
「四月から、急に増えてます。一日、十五人。二十人。……六月なんて、一日に二十八人います」
透は、その束を受け取った。
字が、変わっていた。
三月までの白石の字は、ゆったりしている。所見が長く、患者の言葉がそのまま引用してある。「孫が生まれたので腰を治したい、とのこと」などと、症状に関係のないことまで書いてある。
四月からの字は、詰まっていた。
所見が短い。症状と、施術部位と、次回。それだけになる。ときどき、一行しかない日がある。
そして、症状の欄に、同じ言葉が並び始めていた。
手の震え。眠れない。何も感じない。だるさが取れず、急にやめると具合が悪くなる。
「……全部、同じですね」
美咲が、掠れた声で言った。
「これ、全部、同じ症状です。年齢も、職業も、バラバラなのに」
「産業団地です」
郷原が、静かに言った。この人は、来ると言われていないのに、今日ここへ来ていた。
「二十年前、あの一帯には工場が十いくつありました。モニター配布は、その従業員向けに行われたはずです。……無償で、痛み止めが配られる。工場労働者にとって、断る理由がない話です」
カルテの日付は、四月から始まって、九月に山を作り、そこから減らずに続いていた。
減らずに、二年続いていた。
二年ぶんのカルテを、涼が両手で持ち上げた。持ち上げて、その重さに、腕が少し下がった。
「……この量を、お師匠さんは」
声が、途中で止まった。
「一人で?」
透は、しばらく答えなかった。
窓から入る光が、埃を照らしている。この部屋で、あの人は毎日、朝から夜まで人の背中に鍼を打っていた。二十八人。10分の椅子ではない。一人に四十分かける流儀の人が、二十八人。
「……一人でした」
透は、そう言って、色の濃い作業台の縁に手を置いた。
「その頃、俺は、まだここにいませんでした。俺が拾われたのは、それから十年後です」
「じゃあ、先生は、この二年を」
「知りません。……知ったのは、この人が死んだ後です」
透は、湯呑みを一度、棚に戻した。
「聞いてもらえますか。……長くなります」
場所には記憶が残ります。カルテの字の詰まり方に、あの二年が全部書いてありました。
次回が、この作品でいちばん重い回になります。




