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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第19章 上流の顔

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第60話 医師が、医師に戻る

 真柴玲の回答書は、A4で二枚だった。


 症例報告の整備について、という件名に対して、こう書いてあった。


 当施設で経験した七例について、治験薬との因果関係は現時点で否定できません。よって「因果関係不明」として集計対象から除外する運用には、同意いたしかねます。


 当該七例の診療録、経過記録および患者本人からの聴取内容は、原資料として当施設に保全いたします。なお当施設の判断は、実施計画書に定める安全性情報の取扱いに反するものではない、と考えます。


 最後の一行が、いちばん重かった。


 反しない、と書いてある。つまり、これは反抗ではなく、規定どおりの行為なのだと明言している。彼女は、感情でなく手続きで抗った。


 返答は、四日後に来た。



 テーミス製薬からの通知は、三通に分かれていた。


 一通目、治験実施施設としての契約解除。理由は「実施体制の見直しに伴うもの」。


 二通目、治験薬の供給停止。既に投与中の患者については、他施設への転院か、投与の漸減による中止のいずれかを選択せよ。移行に要する費用は施設側の負担とする。


 三通目、共同研究名義の使用停止。壁の掲示を撤去せよ。


 どこにも、報復とは書いていない。全部が事務手続きの言葉でできていた。


 真柴は、三通を並べて、しばらく眺めていた。


 試算はもう出ている。治験の受託料が消えると、この外来の年間収支は赤字に転落する。一人二十分の問診は、続けられない。看護師の人数も、いまのままでは維持できない。


 開院して七か月で、彼女は自分の外来の運営方式を、根本から書き直すことになった。



「先生。これ、どうしますか」


 看護師が、壁の掲示の前で聞いた。


 共同研究、という見出しの下に、テーミス製薬の名前と、治験の識別番号が並んでいる。開院のときからそこにあった紙だった。


「外します」


「……はい」


「私が外します。ちょっと、脚立を」


 真柴は、自分で脚立に上って、四隅の画鋲を抜いた。紙は、思ったより軽かった。


 剥がした跡に、四つの小さな穴と、日焼けの跡が残った。この壁は、七か月ぶんだけ、そこだけ白い。


 彼女は、その白い長方形を、しばらく見上げていた。



 三日後、真柴はブースに来た。今度は白衣のままだった。昼の休診時間に、駅前から歩いて来たらしい。


「柊木さん。相談ではなく、提案があります」


「はい」


「うちの外来は、これから縮みます。問診の時間は十五分に短くします。それでも回らなければ、十分に。……ただ、切りたくないものが、ひとつあります」


「三枚目の問診票ですね」


 真柴が、少し目を見張った。


「読んでいたんですか」


「一度、書きかけました」


 この痛みのせいで、諦めたことがあれば書いてください。あの一枚を、透は覚えている。


「あれは、残します。時間が無くても、あれだけは読みます。……そのかわり、読んだあとで私に打てる手が減ります。薬を減らした患者さんの、その後を診る余裕が」


 真柴は、鞄からファイルを出した。


「そこで、提案です。うちの患者さんのうち、薬以外の選択肢を試したい方を、こちらに紹介させてください。逆に、そちらで薬が必要と判断された方は、うちに送っていただきたい」


「……いいんですか。俺は、あなたの治験を潰した側です」


「潰したのは、私です」


 真柴は、はっきり言った。


「柊木さん。誤解しないでいただきたいのですが、私は、いまでも薬でしか救えない患者がいると思っています。そこは一歩も譲りません。あの薬だって、設計思想そのものが間違っていたとは思っていない」


「はい」


「間違っていたのは、治った後を誰も診なかったことです。それだけです。……だから、治った後を診る人が要る。あなたは、それをやっている」


 透は、少し笑った。この人は最後まで、自分の論理を曲げていない。曲げないまま、こちら側へ回路を一本繋いだ。


 これが、白石の言っていたことなのだと思った。


 医者に、医者に戻ってもらう。倒すのでも、改宗させるのでもない。その人が本来やるはずだった仕事に、戻ってもらう。


「紹介状の様式、うちにも下さい。作り方が分からないので」


「書き方から教えます。……鍼灸師に紹介状を書く医者は、たぶん国内でそう多くない。様式ごと、作りましょう」


 真柴は、そこで初めて、少しだけ笑った。目の下の隈は、前より濃かった。


「真柴先生」


「はい」


「肩、凝ってませんか」


「凝ってます」


 今度は、順番を後回しにしなかった。


「……今日は無理です。診療があるので。来週の休診日に、伺います。患者として」




 同じ頃、テーミス製薬の一室で、一人の男が報告書を書いていた。


 週次の進捗報告である。項目は決まっている。導入企業の交渉状況、実施施設の運用状況、申請スケジュール。


 男の手が、二番目の項目で止まった。


 実施施設の運用状況。ここに書くべきことがある。当該施設が整備要請を拒否し、原資料の保全を宣言した。契約は解除済み。ただし、拒否の理由が「安全性情報の取扱いに反しない」という形式で残されている。この形は、後日、外部から参照される可能性がある。


 書くべきだった。書けば、本社は先手を打てる。医師の資格や施設の運営に、圧力をかける方法はいくらでもある。


 男は、その項目に、こう書いた。


 実施施設一件、契約解除。特記事項なし。


 送信して、椅子の背にもたれた。


 引き出しを開けて、白い粒をひとつ、灯りに透かす。長いあいだ、そうしていた。


「……なぜ、書かない」


 誰もいない部屋で、男は自分に聞いた。


 答えは、返ってこなかった。

 戻るのに、外来ひとつぶんの代償がかかりました。

 次回から第21章。柊木先生が、まだ誰にも話していない話をします。

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