第60話 医師が、医師に戻る
真柴玲の回答書は、A4で二枚だった。
症例報告の整備について、という件名に対して、こう書いてあった。
当施設で経験した七例について、治験薬との因果関係は現時点で否定できません。よって「因果関係不明」として集計対象から除外する運用には、同意いたしかねます。
当該七例の診療録、経過記録および患者本人からの聴取内容は、原資料として当施設に保全いたします。なお当施設の判断は、実施計画書に定める安全性情報の取扱いに反するものではない、と考えます。
最後の一行が、いちばん重かった。
反しない、と書いてある。つまり、これは反抗ではなく、規定どおりの行為なのだと明言している。彼女は、感情でなく手続きで抗った。
返答は、四日後に来た。
テーミス製薬からの通知は、三通に分かれていた。
一通目、治験実施施設としての契約解除。理由は「実施体制の見直しに伴うもの」。
二通目、治験薬の供給停止。既に投与中の患者については、他施設への転院か、投与の漸減による中止のいずれかを選択せよ。移行に要する費用は施設側の負担とする。
三通目、共同研究名義の使用停止。壁の掲示を撤去せよ。
どこにも、報復とは書いていない。全部が事務手続きの言葉でできていた。
真柴は、三通を並べて、しばらく眺めていた。
試算はもう出ている。治験の受託料が消えると、この外来の年間収支は赤字に転落する。一人二十分の問診は、続けられない。看護師の人数も、いまのままでは維持できない。
開院して七か月で、彼女は自分の外来の運営方式を、根本から書き直すことになった。
「先生。これ、どうしますか」
看護師が、壁の掲示の前で聞いた。
共同研究、という見出しの下に、テーミス製薬の名前と、治験の識別番号が並んでいる。開院のときからそこにあった紙だった。
「外します」
「……はい」
「私が外します。ちょっと、脚立を」
真柴は、自分で脚立に上って、四隅の画鋲を抜いた。紙は、思ったより軽かった。
剥がした跡に、四つの小さな穴と、日焼けの跡が残った。この壁は、七か月ぶんだけ、そこだけ白い。
彼女は、その白い長方形を、しばらく見上げていた。
三日後、真柴はブースに来た。今度は白衣のままだった。昼の休診時間に、駅前から歩いて来たらしい。
「柊木さん。相談ではなく、提案があります」
「はい」
「うちの外来は、これから縮みます。問診の時間は十五分に短くします。それでも回らなければ、十分に。……ただ、切りたくないものが、ひとつあります」
「三枚目の問診票ですね」
真柴が、少し目を見張った。
「読んでいたんですか」
「一度、書きかけました」
この痛みのせいで、諦めたことがあれば書いてください。あの一枚を、透は覚えている。
「あれは、残します。時間が無くても、あれだけは読みます。……そのかわり、読んだあとで私に打てる手が減ります。薬を減らした患者さんの、その後を診る余裕が」
真柴は、鞄からファイルを出した。
「そこで、提案です。うちの患者さんのうち、薬以外の選択肢を試したい方を、こちらに紹介させてください。逆に、そちらで薬が必要と判断された方は、うちに送っていただきたい」
「……いいんですか。俺は、あなたの治験を潰した側です」
「潰したのは、私です」
真柴は、はっきり言った。
「柊木さん。誤解しないでいただきたいのですが、私は、いまでも薬でしか救えない患者がいると思っています。そこは一歩も譲りません。あの薬だって、設計思想そのものが間違っていたとは思っていない」
「はい」
「間違っていたのは、治った後を誰も診なかったことです。それだけです。……だから、治った後を診る人が要る。あなたは、それをやっている」
透は、少し笑った。この人は最後まで、自分の論理を曲げていない。曲げないまま、こちら側へ回路を一本繋いだ。
これが、白石の言っていたことなのだと思った。
医者に、医者に戻ってもらう。倒すのでも、改宗させるのでもない。その人が本来やるはずだった仕事に、戻ってもらう。
「紹介状の様式、うちにも下さい。作り方が分からないので」
「書き方から教えます。……鍼灸師に紹介状を書く医者は、たぶん国内でそう多くない。様式ごと、作りましょう」
真柴は、そこで初めて、少しだけ笑った。目の下の隈は、前より濃かった。
「真柴先生」
「はい」
「肩、凝ってませんか」
「凝ってます」
今度は、順番を後回しにしなかった。
「……今日は無理です。診療があるので。来週の休診日に、伺います。患者として」
同じ頃、テーミス製薬の一室で、一人の男が報告書を書いていた。
週次の進捗報告である。項目は決まっている。導入企業の交渉状況、実施施設の運用状況、申請スケジュール。
男の手が、二番目の項目で止まった。
実施施設の運用状況。ここに書くべきことがある。当該施設が整備要請を拒否し、原資料の保全を宣言した。契約は解除済み。ただし、拒否の理由が「安全性情報の取扱いに反しない」という形式で残されている。この形は、後日、外部から参照される可能性がある。
書くべきだった。書けば、本社は先手を打てる。医師の資格や施設の運営に、圧力をかける方法はいくらでもある。
男は、その項目に、こう書いた。
実施施設一件、契約解除。特記事項なし。
送信して、椅子の背にもたれた。
引き出しを開けて、白い粒をひとつ、灯りに透かす。長いあいだ、そうしていた。
「……なぜ、書かない」
誰もいない部屋で、男は自分に聞いた。
答えは、返ってこなかった。
戻るのに、外来ひとつぶんの代償がかかりました。
次回から第21章。柊木先生が、まだ誰にも話していない話をします。




