第59話 数字に転んだ側
真柴玲がブースに現れたのは、水曜の夜だった。
診療の終わった時間で、パーテーションは畳んである。涼が湯呑みを洗っていて、透は明日の予約表を見ていた。予約は二週間先まで埋まったままだが、最近は断り状の文面が少しうまくなった。断る作業も、慣れれば技になる。
「柊木さん。……夜分に、すみません」
白衣ではなかった。コートの下は、たぶん普段着だった。この人の私服を、透は初めて見た。
肩から首の後ろにかけて、薄く霧が上がっているのが視えた。強い焦げではない。ただ、まっすぐ立っている人の霧では、なかった。
「どうぞ。座ってください」
涼が、無言で湯呑みを出した。何も聞かずに、温度をいつもより少し低くしていた。この若者は、来訪者の顔で湯の温度を決めるようになっている。
真柴は、湯呑みを両手で受け取って、しばらく黙っていた。
「相談に来たわけでは、ないんです」
「はい」
「……いえ、相談です。すみません」
彼女は、鞄から一枚の紙を出した。症例報告の整備について、という件名の写しだった。透は読み、無言で二度目を読み、そして紙を机に置いた。
言いたいことは、いくつもあった。
言わなかった。
この人が抱えているのは、鍼灸師の領分の問題ではない。医者が、医者の資格で決めなければならない類の問題だった。ここで自分が正論を並べれば、それは外側からの圧力にしかならない。外圧で曲げた判断は、次の圧力でまた曲がる。
だから、透は電話をかけた。
「郷原先生。……いま、ブースに来ていただけますか」
郷原は、二十分で来た。
コートも脱がずに入ってきて、机の上の紙を見て、それから真柴を見た。
「ヘリオス産業医クリニックの郷原です。……蓮見さんの照会を出した人間です」
「真柴です。あの照会には、テンプレートしかお返しできませんでした」
「知っています。あれは、あなたの言葉ではなかった」
郷原は、勧められる前に椅子に座った。それから、紙を一度手に取って、すぐ置いた。
「整備、ですか。よくできた言葉だ」
「……先生は、どう思われますか」
「私が思うことより、先に申し上げることがあります」
郷原は、少し姿勢を正した。
「私は、数字に転んだ側の医者です」
真柴が、顔を上げた。
「産業医として、この会社に十二年います。最初の頃は、一人ずつ面談していました。三十分ずつ、話を聞いて、必要なら就業制限をかけて、上とやり合って。……三年で、やめました」
「やめた、というのは」
「丁寧にやると、こちらが持たない。そして、こちらが持たなくなっても、誰も待ってくれない。産業医の評価は、面談の質では測られません。実施率と、休業日数です」
郷原の声は、淡々としていた。淡々としているぶん、自嘲が濃かった。
「だから、私は数字で語る医者になりました。痛みは消せばいい。個人の身体は組織の数字に比べれば誤差だ。……その言葉を、この会社で何年も言い続けました。言い続けているうちに、本当にそう思うようになった。そこが、いちばん怖いところです」
「……」
「去年、この会社で二人倒れました。一人は課長で、私が『無理か』と聞かれた側です。もう一人は、制作部の方で、その人は戻ってきませんでした」
牧野の名を、郷原は出さなかった。透も出さない。この場で名前を出せば、それは説得の道具になる。美咲が役員会でやらなかったことを、こちらもやらないと決めていた。
「私が転んだ結果です。全部ではないが、一部は確実にそうです」
真柴が、湯呑みを置いた。指が、少し震えていた。
「……戻れましたか」
「戻るのに、半年かかりました」
郷原は、はっきり言った。
「そして、半年かかった理由は、私が悪人だったからではありません。私は、自分が転んだことに気づかなかったんです。気づかせたのは、この人でした」
郷原が、透のほうを一瞥した。
透は、何も言わなかった。かわりに、机の引き出しから一枚の紙を出して、真柴の前に置いた。
蓮見の生活の記録の、続きだった。あれから五週間分。起床時刻が少しずつ早くなり、歩行の距離が伸びている。三週目から、備考欄に本人の字が入るようになっていた。
「散歩の途中で、ベンチに座った。座りたかったから座った。」
真柴は、その一行を、長いこと見ていた。
「……これは」
「休むことを、自分で決められるようになった人の字です」
透が言ったのは、それだけだった。
医者の問題は、医者が結ぶ。師の言葉を、透はこの夜、初めて実践している。自分の役目は、事実をひとつ、机の上に置くところまでだった。
郷原が、最後に言った。
「真柴先生。……ひとつだけ、余計なことを申し上げます」
「はい」
「あなたが七件を消したとしても、患者は明日も来ます。外来は続く。丁寧な問診も続く。だから、消したことに気づく人は、たぶん一人もいません」
「……はい」
「ただし、あなたは気づいている」
郷原は、そこで立ち上がった。
「私が半年かかったのは、気づいていなかったからです。あなたは、もう気づいている。だから、半年はかからない」
診察室でも会議室でもない、社内の隅の小さなブースで、二人の医者の話は終わった。
真柴は、湯呑みの茶を、最後まで飲んだ。それから、鞄の中の紙を、一度も見ずに言った。
「……保全します。全例」
声は、静かだった。
「削除した瞬間、私は医者じゃなくなる」
主人公が黙っている回でした。「医者には、医者に戻ってもらえ」を実際にやると、こうなります。
説得役を郷原にしたのは第1部からの宿題でした。転んだことのある人にしか言えない台詞があります。
次回、転向には代償があります。
説得された側より、説得した側の顔が気になった方。ブックマークか評価で、そっと教えてください。




