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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第19章 上流の顔

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第58話 クリーニング

 その依頼書の件名は、「症例報告の整備について」だった。


 真柴玲は、それを朝いちばんに開いて、二度読んだ。二度読んでも、書いてあることは変わらなかった。


 承認申請に向け、各実施施設から提出された症例報告について、記載内容の整備をお願いしたい。特に、治験薬との因果関係の判定が困難な事象については、統計解析の精度を保つ観点から、因果関係不明として集計対象から除外する運用を推奨する。別紙に、当社にて整備の対象と判断した症例の一覧を添付する。


 文面は、丁寧だった。手続きも、たぶん違法ではない。因果関係が不明な事象を集計から外すこと自体は、どの治験でも起こりうる。


 だから、これは改ざんではない。


 書式の上では。


 真柴は、別紙を開いた。


 自施設分として、七件が並んでいた。全身倦怠。過活動による機能低下。休職。日常生活動作の低下。どれも、彼女が自分で書式に落として、自分で本社に上げたものだった。


 上から三番目に、蓮見の識別番号がある。



 診察が始まるまで、あと二十分あった。


 真柴は、椅子を回して、窓の外を見た。駅前の交差点が、朝の人で埋まっている。この時間帯、あそこを渡ってくる人たちの何人かは、うちの待合に来る。


 開院して七か月になる。四十人の午前と、三枚の問診票と、六軒目でここに辿り着く人たち。それがこの七か月の中身だった。


 この外来を作るとき、彼女には目的がひとつしかなかった。画像に写らない痛みを、無いことにしない。それだけだった。


 医局にいた頃、そういう患者を何人も見送った。異常なし。様子を見ましょう。気のせいでしょう。三行で片づけられて、六軒目の待合に座り直す人たち。彼女はその人たちの顔を、いまでも覚えている。


 覚えているというのは、正確ではない。忘れられないのだ。


 開業には、金が要った。疼痛の専門外来は、保険診療だけでは回らない。丁寧な問診をすればするほど、一人あたりの時間が延びて、採算が落ちる。三枚の問診票を全部読むという運用は、それ自体が経営的には自殺行為だった。


 テーミスの治験は、その穴を埋めた。


 治験の受託料と、薬剤の供給。それがあるから、彼女は一人に二十分かけられる。彼女の外来が「丁寧だ」と患者に言われるとき、その丁寧さの原資は、この一枚の契約から出ている。


 組んだのは、患者を診続けるためだった。


 その契約が、いま、患者を消せと言っている。



「先生、そろそろ」


 看護師の声で、真柴は我に返った。


「ええ。……すぐ行きます」


 午前の診療は、いつもどおりだった。いつもどおりに問診票を全部読み、いつもどおりに聞き直し、いつもどおりに丁寧だった。患者は満足して帰っていく。


 昼休みに、彼女はもう一度、別紙を開いた。


 七件。


 この七件を「因果関係不明」として外せば、申請データはきれいになる。承認は近づく。承認が下りれば、この薬は保険で使えるようになり、いま彼女の外来に来られている人の何倍もの人に届く。


 届くのは、いいことだ。


 ただし、届いた先の何人かは、蓮見と同じことになる。それが何人かは分からない。分からないのは、いま自分が、その分からなさを数える手続きを、消そうとしているからだ。


 真柴は、ペンを持った。


 持って、置いた。


 持って、また置いた。


 外すこと自体は、できる。因果関係不明という判断には、医学的な余地がある。倦怠感の増悪が薬によるものか、原疾患の経過か、職場復帰の負荷か、切り分ける方法は無い。だから「不明」は、嘘ではない。


 嘘ではない書き方で、人を一人ずつ消していける。しかも、消した本人がいちばん、消したという実感を持てない。判断の余地の中に隠れるからだ。


 その手続きの名前が、整備だった。



 夕方、最後の患者が帰ったあと、真柴は誰もいない診察室で、独りごとを言った。


「……私は、何を守るために組んだんだった?」


 答えは、すぐに出た。


 患者を診続けるためだ。それ以外の理由は、一度も無かった。


 では、患者を消せば、患者を診続けられるのか。


 診続けられる。実際に、この外来は明日も開く。明日も四十人が来て、そのうちの何人かは、六軒目でここに辿り着いた人だ。その人たちは、七件が消えたことを知らないまま、救われる。


 救われる人のほうが、多い。


 多いという言葉が、彼女の口の中に残った。数の言葉だった。自分がいちばん軽蔑していた種類の言葉が、いま、自分の口から出てきている。


 真柴は、机の上の写真立てを裏返した。開院のときに撮った、スタッフ全員の写真である。あの日、看護師の一人が「ここは六軒目の人が来る病院ですね」と言って、みんなで笑った。笑い話にできたのは、そう言い切れる自信があったからだった。


 それから、電子カルテを開いて、蓮見の記録を呼び出した。


 初診の日の欄に、彼女の字が残っている。


 「朝、起き上がるという動作の手順が分からなくなる、との訴え。表現が具体的。傾聴。」


 傾聴、と自分で書いていた。


 あの日、この人の話を聞いた自分と、この人を集計から外そうとしている自分が、同じ椅子に座っている。


 真柴の手が、そこで止まった。

 改ざんは、たいてい「整備」という名前で来ます。書式が正しいほど、断りにくい。

 次回、この人に会いに行くのは柊木先生ではありません。

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