第58話 クリーニング
その依頼書の件名は、「症例報告の整備について」だった。
真柴玲は、それを朝いちばんに開いて、二度読んだ。二度読んでも、書いてあることは変わらなかった。
承認申請に向け、各実施施設から提出された症例報告について、記載内容の整備をお願いしたい。特に、治験薬との因果関係の判定が困難な事象については、統計解析の精度を保つ観点から、因果関係不明として集計対象から除外する運用を推奨する。別紙に、当社にて整備の対象と判断した症例の一覧を添付する。
文面は、丁寧だった。手続きも、たぶん違法ではない。因果関係が不明な事象を集計から外すこと自体は、どの治験でも起こりうる。
だから、これは改ざんではない。
書式の上では。
真柴は、別紙を開いた。
自施設分として、七件が並んでいた。全身倦怠。過活動による機能低下。休職。日常生活動作の低下。どれも、彼女が自分で書式に落として、自分で本社に上げたものだった。
上から三番目に、蓮見の識別番号がある。
診察が始まるまで、あと二十分あった。
真柴は、椅子を回して、窓の外を見た。駅前の交差点が、朝の人で埋まっている。この時間帯、あそこを渡ってくる人たちの何人かは、うちの待合に来る。
開院して七か月になる。四十人の午前と、三枚の問診票と、六軒目でここに辿り着く人たち。それがこの七か月の中身だった。
この外来を作るとき、彼女には目的がひとつしかなかった。画像に写らない痛みを、無いことにしない。それだけだった。
医局にいた頃、そういう患者を何人も見送った。異常なし。様子を見ましょう。気のせいでしょう。三行で片づけられて、六軒目の待合に座り直す人たち。彼女はその人たちの顔を、いまでも覚えている。
覚えているというのは、正確ではない。忘れられないのだ。
開業には、金が要った。疼痛の専門外来は、保険診療だけでは回らない。丁寧な問診をすればするほど、一人あたりの時間が延びて、採算が落ちる。三枚の問診票を全部読むという運用は、それ自体が経営的には自殺行為だった。
テーミスの治験は、その穴を埋めた。
治験の受託料と、薬剤の供給。それがあるから、彼女は一人に二十分かけられる。彼女の外来が「丁寧だ」と患者に言われるとき、その丁寧さの原資は、この一枚の契約から出ている。
組んだのは、患者を診続けるためだった。
その契約が、いま、患者を消せと言っている。
「先生、そろそろ」
看護師の声で、真柴は我に返った。
「ええ。……すぐ行きます」
午前の診療は、いつもどおりだった。いつもどおりに問診票を全部読み、いつもどおりに聞き直し、いつもどおりに丁寧だった。患者は満足して帰っていく。
昼休みに、彼女はもう一度、別紙を開いた。
七件。
この七件を「因果関係不明」として外せば、申請データはきれいになる。承認は近づく。承認が下りれば、この薬は保険で使えるようになり、いま彼女の外来に来られている人の何倍もの人に届く。
届くのは、いいことだ。
ただし、届いた先の何人かは、蓮見と同じことになる。それが何人かは分からない。分からないのは、いま自分が、その分からなさを数える手続きを、消そうとしているからだ。
真柴は、ペンを持った。
持って、置いた。
持って、また置いた。
外すこと自体は、できる。因果関係不明という判断には、医学的な余地がある。倦怠感の増悪が薬によるものか、原疾患の経過か、職場復帰の負荷か、切り分ける方法は無い。だから「不明」は、嘘ではない。
嘘ではない書き方で、人を一人ずつ消していける。しかも、消した本人がいちばん、消したという実感を持てない。判断の余地の中に隠れるからだ。
その手続きの名前が、整備だった。
夕方、最後の患者が帰ったあと、真柴は誰もいない診察室で、独りごとを言った。
「……私は、何を守るために組んだんだった?」
答えは、すぐに出た。
患者を診続けるためだ。それ以外の理由は、一度も無かった。
では、患者を消せば、患者を診続けられるのか。
診続けられる。実際に、この外来は明日も開く。明日も四十人が来て、そのうちの何人かは、六軒目でここに辿り着いた人だ。その人たちは、七件が消えたことを知らないまま、救われる。
救われる人のほうが、多い。
多いという言葉が、彼女の口の中に残った。数の言葉だった。自分がいちばん軽蔑していた種類の言葉が、いま、自分の口から出てきている。
真柴は、机の上の写真立てを裏返した。開院のときに撮った、スタッフ全員の写真である。あの日、看護師の一人が「ここは六軒目の人が来る病院ですね」と言って、みんなで笑った。笑い話にできたのは、そう言い切れる自信があったからだった。
それから、電子カルテを開いて、蓮見の記録を呼び出した。
初診の日の欄に、彼女の字が残っている。
「朝、起き上がるという動作の手順が分からなくなる、との訴え。表現が具体的。傾聴。」
傾聴、と自分で書いていた。
あの日、この人の話を聞いた自分と、この人を集計から外そうとしている自分が、同じ椅子に座っている。
真柴の手が、そこで止まった。
改ざんは、たいてい「整備」という名前で来ます。書式が正しいほど、断りにくい。
次回、この人に会いに行くのは柊木先生ではありません。




