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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第19章 上流の顔

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第57話 足元の白い流れ

「持ち帰ります」


 美咲は、そう言った。


 表彰式の翌日、推進室の応接で、御厨の部下が覚書の写しを置いていったときのことだった。今週中に、という期限は変わらない。


「条項を、全部読んでから。……法務にも通します」


「もちろんです。ご検討ください」


 部下が帰ったあと、美咲はドアを閉めて、覚書をめくり始めた。A4で十四枚。うち本文は四枚で、あとは別紙だった。


 半年前の自分なら、と彼女は思った。


 半年前なら、断っていた。感情で。あるいは、断れずに飲んでいた。どちらにしても、その場で決めていた。


 いまは、その場で決めない。


 決めないというのは、逃げではない。時間を取ることが、いちばん効く手だと知っただけだ。持ち帰って、読んで、法務を巻き込む。巻き込んだ瞬間、この話は「推進室が断るかどうか」ではなく「会社が結ぶかどうか」になる。彼女ひとりの首に載っていた重さが、会社の重さに変わる。


 黒岩に「それは、出来ません」と言った日から、彼女は一年で、断り方をもう一段覚えていた。



 三日かけて、美咲は覚書を読み切った。


 問題は、本文ではなかった。本文は、驚くほど公正に書いてある。参加は任意、費用は先方負担、社員の同意取得も適切だった。


 別紙の七枚目だった。


 共同実証で得られたデータの取扱いに関する条項。匿名化された健康情報は、本事業の目的の範囲内で、実施者が別途定める研究計画に基づき二次利用できる、とある。


 目的の範囲内。別途定める。


 去年の秋、同じ言葉を見た。ウェルネス・サポート・プログラムの同意書だった。あのとき入江が押した同意のチェックボックスの下に、まったく同じ構造の一行が入っていた。


 この一行があると、二次利用の中身は、あとから先方が決められる。決めた内容を、こちらは知らされない。同意したのは「本事業への参加」であって、まだ書かれてもいない研究計画ではないのに、書面の上では同意したことになる。


 美咲は、その七枚目に付箋を貼った。


 それから、もう一枚。相談ルートで受け付けた相談記録を、共同実証の対象者選定に「参照できる」とする一行にも。


 声を上げた人の記録が、薬を配る先のリストになる。


 それだけは、絶対に通せない。あの制度は、上長に見せないと約束したから成り立っている。誰かに見せるための入口ではないのだ。


 美咲は、付箋を貼った二枚を持って、法務部へ向かった。



 同じ週、痛みゼロ外来では、真柴が古い封筒を開けていた。


 自分が本社に出した提言と、その返答の写しだった。もう何度も読んでいる。読むたびに、同じところで止まる。


 実施施設におかれましては計画書に定める運用に専念いただきますよう。


 運用に専念せよ。


 医者に向かって言う言葉ではなかった。少なくとも、患者の異変を報告した医者に向かって、最初に返す言葉ではない。


 真柴は、机の引き出しから、別のファイルを取り出した。この三か月で自分の外来に上がった有害事象の記録。書式に落として、本社に上げた分と、まだ手元にある分。


 上げた分が、どこへ行ったのか。


 一件も、フィードバックが返ってきていない。他施設で同種の事象があるのか、無いのか。無いなら無いと言ってくれればいい。それすら返ってこない。


 返ってこないという事実の意味を、真柴はもう分かっている。分かっていて、まだ言葉にしていない。言葉にした日から、この外来の資金と薬の供給が、どうなるかも分かっているからだった。


 彼女は、そのファイルの背に、指を置いたまま、しばらく動かなかった。



 その週の金曜、涼が青い顔でブースに入ってきた。


 いつもより一時間早かった。茶葉を量る前に、スマホを握りしめている。


「先生。……見てもらっていいですか」


 画面に出ていたのは、古巣の同僚から回ってきた社内発令の写しだった。


 クイック整体チェーン「リセット10」全店。来月より、テーミス製薬との提携による「リカバリーサポートメニュー」を導入。施術後の来店者に対し、提携クリニックの受診案内を配布すること。案内の配布実績を店舗評価項目に加える。


 最後の行に、発令者の名前があった。


 代表取締役 宇津木。


「僕、あの店にいたとき、一日26人触ってました。あの椅子に座る人って、たいてい、病院に行くほどじゃないと思ってる人なんです。……あそこで案内を配ったら、たぶん、けっこうな数が動きます」


「そうでしょうね」


「先生。あの椅子は、ノルマの椅子でしたけど、それでも、誰かの逃げ場だったんです。10分で、千円で、思い立った日に座れる。……それが、薬の入口になります」


 涼の手が、震えていた。


 この若者は、あの椅子を守ろうとしていたのだと、透は初めて気づいた。速さを信じていたのは、店を信じていたからではない。あそこに座りに来る人たちを、信じていたからだ。


「僕の店にも……あの白い流れが、来ます」


 もう自分の店ではないのに、涼はそう言った。


 透は、湯を沸かした。この若者に茶を出すのは、これが初めてだった。


「都築さん」


「……はい」


「座ってください。温かいお茶、入れますから」

 白い流れは、上からだけでなく横からも来ます。しかも今度は、鍼灸の側の看板を着て。

 次回から第20章。医者と医者の話です。

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