第56話 数百万人の半年
「お元気そうで、なによりです」
白瀬は、そう言った。
半年前と、何ひとつ変わっていない。声の高さも、間の取り方も、微笑の角度も。変わったのは透のほうだった。あのときは、この身体が視えないことを、敵の隠し球だと思っていた。
いまは、別の疑いを持っている。
「白瀬さん」
「はい」
「……最近、お加減は」
白瀬の微笑が、ほんのわずかだけ止まった。
止まったのは、一瞬である。すぐに元の角度に戻って、彼は小さく笑った。
「私の心配をしてくださるんですか。半年前、私を上流と呼んだ方が」
「職業病です」
「結構なご職業だ」
二人は、壁際に並んで立った。会場の中央では、御厨が専務と何かを話している。専務が頷いている。
「あの日、名刺の裏に書いたことを、覚えておいでですか」
「次は、もっと大きな場所で」
「そのとおりです。……ずいぶん、大きな場所になりました」
白瀬は、グラスに口をつけなかった。持っているだけだった。
「柊木さん。あなたのこの半年は、素晴らしかった。私は本当にそう思っています。一社の中で、数百人の身体が楽になった。制度ができて、声を上げられる人が増えた。表彰もされた。……立派です」
「ありがとうございます」
「私の半年は」
白瀬は、そこで初めて透のほうを向いた。
「承認されれば、数百万人です」
言葉が、腹の底に落ちた。
冷たいものが落ちたのではない。重いものが落ちた。
「私は、あなたの手を否定しません。あの鍼で救われた方は、確かに救われた。……ただ、あなたの手は、一日に何人ですか」
この問いを、透はこの半年で二度目に受けている。一度目は真柴だった。あのときは答えられずに帰った。
「8人です」
「一年で、二千人。四十年やって、八万人」
白瀬は、指も折らずに計算した。
「私の申請が通れば、初年度の推計処方数が四十万人です。四十年ではなく、一年で」
透は、答えなかった。
答えの用意が無かったのではない。用意はあった。数の問題ではない、と言えばいい。楽にすることと治すことは違う、と返す手もある。蓮見の名前を出してもいい。
だが、この人はその全部を知っていて、そのうえで言っている。だから、言い返した瞬間に、こちらは同じ議論を二周目に入るだけだ。
「……蓮見さんの件は、ご存じですか」
「存じています。有害事象として、報告は上がっています」
「上がって、それで」
「評価項目に無いので、集計の外に置かれます」
白瀬は、事実を事実として述べた。それを恥じてもいなければ、正当化してもいなかった。
「柊木さん。私は、あの方に申し訳ないと思っています。本当です。……ですが、私の仕事は、あの方一人を守ることではありません。四十万人の初年度を、守ることです」
「一人を、こぼしても」
「こぼれる方は、出ます」
白瀬の声が、ほんの少しだけ低くなった。
「出ますよ。どんな薬でも。手術でも、ワクチンでも、車でもそうです。……そのかわり、四十万人が今夜眠れます。この計算を、あなたは間違っていると言えますか」
言えなかった。
言えないことが悔しいのでは、たぶんない。悔しいのは、この計算の中に、牧野さんが入っていないことだった。牧野という名前は、四十万分の一として処理される。処理して構わない、と誰も言っていないのに、処理される。誰も悪くないまま、そうなる。
そして自分は、その反論を、数字では組み立てられない。
「……ひとつだけ」
透は、やっとそれだけを言った。
「あなたのその四十万人の中に、あなたご自身は、入ってますか」
白瀬が、こちらを見た。
微笑は、そのままだった。ただ、返事が来るまでに、いままででいちばん長い間があった。
「……面白いことを、聞かれる」
それだけだった。答えでも、否定でもない。
透は、その間の長さを覚えておくことにした。半年前、この人の身体には何も視えなかった。いまも何も視えない。だが、間の長さは、身体の代わりに何かを言う。
その頃、会場の反対側では、御厨が美咲に覚書の話をしていた。
「明日お持ちすると申し上げましたが、実物は今日、鞄に入っております」
「今日、ですか」
「せっかくの佳き日ですので。……専務にもご覧いただきました。前向きに、とのことでした」
美咲の背中が、固くなるのが分かった。
順番が、逆だった。実務担当が内容を検討する前に、役員が「前向きに」と言っている。この形にされると、断ることは会社への反抗になる。
「本日、この場でご署名をとは申しません。ただ」
御厨は、静かに続けた。
「当社は御社の産業鍼灸ブースの外部委託契約にも、間接的に関わっております。ヘリオスさんを通じて。……ご存じでしたか」
「……いえ」
「ご心配なく。何かをするという話ではありません。ただ、当社との関係が薄くなれば、そちらの契約も、来期は自然に見直しの対象に入るというだけのことです」
脅していない。
脅していないから、抗議もできない。事実を並べて、結論を相手に組み立てさせる。この人は、自分の口から一度も、条件を言わない。
「お返事は、いつまでに」
美咲が聞いた。声は、震えていなかった。
「今週中に」
「四十万人が今夜眠れる」。この計算に、鍼一本でどう答えるか。しばらく柊木先生の宿題になります。
主人公が黙って終わる回を書くのは勇気が要りますが、ここで勝たせると第2部の答えが安くなるので。
次回、美咲が覚書を持ち帰ります。今週中に、という期限つきで。
黙って終わった先生に、それでも付き合ってくださった方。評価かブックマークをいただけると、次が書きやすくなります。




