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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第19章 上流の顔

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第56話 数百万人の半年

「お元気そうで、なによりです」


 白瀬は、そう言った。


 半年前と、何ひとつ変わっていない。声の高さも、間の取り方も、微笑の角度も。変わったのは透のほうだった。あのときは、この身体が視えないことを、敵の隠し球だと思っていた。


 いまは、別の疑いを持っている。


「白瀬さん」


「はい」


「……最近、お加減は」


 白瀬の微笑が、ほんのわずかだけ止まった。


 止まったのは、一瞬である。すぐに元の角度に戻って、彼は小さく笑った。


「私の心配をしてくださるんですか。半年前、私を上流と呼んだ方が」


「職業病です」


「結構なご職業だ」


 二人は、壁際に並んで立った。会場の中央では、御厨が専務と何かを話している。専務が頷いている。


「あの日、名刺の裏に書いたことを、覚えておいでですか」


「次は、もっと大きな場所で」


「そのとおりです。……ずいぶん、大きな場所になりました」


 白瀬は、グラスに口をつけなかった。持っているだけだった。


「柊木さん。あなたのこの半年は、素晴らしかった。私は本当にそう思っています。一社の中で、数百人の身体が楽になった。制度ができて、声を上げられる人が増えた。表彰もされた。……立派です」


「ありがとうございます」


「私の半年は」


 白瀬は、そこで初めて透のほうを向いた。


「承認されれば、数百万人です」


 言葉が、腹の底に落ちた。


 冷たいものが落ちたのではない。重いものが落ちた。


「私は、あなたの手を否定しません。あの鍼で救われた方は、確かに救われた。……ただ、あなたの手は、一日に何人ですか」


 この問いを、透はこの半年で二度目に受けている。一度目は真柴だった。あのときは答えられずに帰った。


「8人です」


「一年で、二千人。四十年やって、八万人」


 白瀬は、指も折らずに計算した。


「私の申請が通れば、初年度の推計処方数が四十万人です。四十年ではなく、一年で」


 透は、答えなかった。


 答えの用意が無かったのではない。用意はあった。数の問題ではない、と言えばいい。楽にすることと治すことは違う、と返す手もある。蓮見の名前を出してもいい。


 だが、この人はその全部を知っていて、そのうえで言っている。だから、言い返した瞬間に、こちらは同じ議論を二周目に入るだけだ。


「……蓮見さんの件は、ご存じですか」


「存じています。有害事象として、報告は上がっています」


「上がって、それで」


「評価項目に無いので、集計の外に置かれます」


 白瀬は、事実を事実として述べた。それを恥じてもいなければ、正当化してもいなかった。


「柊木さん。私は、あの方に申し訳ないと思っています。本当です。……ですが、私の仕事は、あの方一人を守ることではありません。四十万人の初年度を、守ることです」


「一人を、こぼしても」


「こぼれる方は、出ます」


 白瀬の声が、ほんの少しだけ低くなった。


「出ますよ。どんな薬でも。手術でも、ワクチンでも、車でもそうです。……そのかわり、四十万人が今夜眠れます。この計算を、あなたは間違っていると言えますか」


 言えなかった。


 言えないことが悔しいのでは、たぶんない。悔しいのは、この計算の中に、牧野さんが入っていないことだった。牧野という名前は、四十万分の一として処理される。処理して構わない、と誰も言っていないのに、処理される。誰も悪くないまま、そうなる。


 そして自分は、その反論を、数字では組み立てられない。


「……ひとつだけ」


 透は、やっとそれだけを言った。


「あなたのその四十万人の中に、あなたご自身は、入ってますか」


 白瀬が、こちらを見た。


 微笑は、そのままだった。ただ、返事が来るまでに、いままででいちばん長い間があった。


「……面白いことを、聞かれる」


 それだけだった。答えでも、否定でもない。


 透は、その間の長さを覚えておくことにした。半年前、この人の身体には何も視えなかった。いまも何も視えない。だが、間の長さは、身体の代わりに何かを言う。



 その頃、会場の反対側では、御厨が美咲に覚書の話をしていた。


「明日お持ちすると申し上げましたが、実物は今日、鞄に入っております」


「今日、ですか」


「せっかくの佳き日ですので。……専務にもご覧いただきました。前向きに、とのことでした」


 美咲の背中が、固くなるのが分かった。


 順番が、逆だった。実務担当が内容を検討する前に、役員が「前向きに」と言っている。この形にされると、断ることは会社への反抗になる。


「本日、この場でご署名をとは申しません。ただ」


 御厨は、静かに続けた。


「当社は御社の産業鍼灸ブースの外部委託契約にも、間接的に関わっております。ヘリオスさんを通じて。……ご存じでしたか」


「……いえ」


「ご心配なく。何かをするという話ではありません。ただ、当社との関係が薄くなれば、そちらの契約も、来期は自然に見直しの対象に入るというだけのことです」


 脅していない。


 脅していないから、抗議もできない。事実を並べて、結論を相手に組み立てさせる。この人は、自分の口から一度も、条件を言わない。


「お返事は、いつまでに」


 美咲が聞いた。声は、震えていなかった。


「今週中に」

 「四十万人が今夜眠れる」。この計算に、鍼一本でどう答えるか。しばらく柊木先生の宿題になります。

 主人公が黙って終わる回を書くのは勇気が要りますが、ここで勝たせると第2部の答えが安くなるので。

 次回、美咲が覚書を持ち帰ります。今週中に、という期限つきで。

 黙って終わった先生に、それでも付き合ってくださった方。評価かブックマークをいただけると、次が書きやすくなります。

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