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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第19章 上流の顔

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第55話 壇上の来賓

 健康経営アワードの通知が来たのは、四半期の報告の三日前だった。


 推進室の受賞ではない。メビウスソフトという会社への表彰である。それでも美咲が封筒を持ってブースに降りてきたとき、彼女の霧は、この半年でいちばん薄かった。


「先生。……取れました」


「おめでとうございます」


「私じゃないです、会社です」


「会社の中の、誰かがやったから会社が取ったんです」


 美咲は、封筒を胸に抱えて、しばらく黙っていた。それから、鼻をすすった。今日の彼女は、いつもの推進室の顔をしていない。制度の話をするときの顔と、いま封筒を抱えている顔は、別人のものだった。


「評価されたの、相談件数なんですよ。……変ですよね。相談が多い会社が表彰されるって」


「変じゃないです。いい変です」


 早期相談ルートの利用件数は、四半期で前期の3倍になっていた。増えた内訳を美咲は一件ずつ読んでいて、そのうち二十いくつかは、施術でも受診でもなく業務調整に流れている。声が上がって、仕事の量が動いた。それが二十いくつ、実際に起きた。


 専務の「次の四半期で機能を示せ」という宿題に、彼女は自分の指標で答えを出したのだった。


「業務調整に回った二十いくつのうち、七件は、たぶん去年なら誰か倒れてました」


 美咲は、封筒を机に置きながら、そう言った。


「私、その七件の名前、全部言えます。……言えるって、たぶん、いいことですよね」


「いいことです」



 表彰式は、都内のホテルの宴会場だった。


 美咲と、総務兼務の主任と、専務。それから、なぜか透も呼ばれた。制度の運用実務者として、と書いてあったが、実際は事例紹介のパネルに写真が使われるからだった。


「先生、スーツ持ってました?」


「一着だけ」


「よかった。白衣で来られたらどうしようかと思ってました」


 壇上での表彰は、短かった。専務が賞状を受け取り、代表して短いコメントを述べた。制度の設計者として美咲の名前が読み上げられたとき、会場から拍手が起きて、彼女の耳が赤くなった。


 いい日である。


 いい日は、そこまでだった。



 祝賀の懇談に移って、透は壁際で烏龍茶を持っていた。この手の場に慣れていない。慣れていないことを隠すのも面倒で、ただ立っていた。


 専務が誰かと話しているのが見えた。相手は、六十前後の男だった。


 背は高くない。姿勢が特別いいわけでもない。上等な生地の背広を、上等に見せる気のない着かたをしている。だが、その男が何か言うたびに、専務の相づちの間隔が短くなっていた。


 男の声は、遠くて聞こえない。それでも、話し方の骨格が分かった。


 断定して、間を置いて、次の断定をする。相手に考える隙を与えないのではなく、考える隙を与えて、その隙が埋まる速度を測っている。そういう話し方だった。


 どこかで聞いた気がした。


 いや、聞いた。去年の秋、役員会議室の卓上スピーカーから。あのとき、白瀬に「計画は続行してください」と言った声。


 美咲が、透の隣に来た。


「先生。あちら、テーミスの」


「常務だそうです。研究開発本部長の」


「名前」


「御厨さん、と」


 美咲の手の中で、グラスが小さく鳴った。


 署名欄で見た名前だった。真柴が本社へ出した提言を、一行で封じた人間の名前。



 御厨が、こちらへ歩いてきた。


 真っ直ぐだった。会場の人の流れをまったく気にせず、間にいた人が自然に道を空けた。そういう歩き方をする人間がいるのだと、透は初めて知った。


「小林美咲さん」


「……はい」


「制度の設計者ですね。拝見しました。相談件数を指標に置いた企業は、国内では御社が初めてです。……たいしたものだ」


 褒めていた。社交辞令ではなく、本当に評価している声だった。


「恐れ入ります」


「早期に声を拾う。素晴らしい。ただ、拾ったあとが弱い」


 御厨は、グラスを持ったまま、少しだけ首を傾けた。


「声を拾って、業務調整に回す。それで解決するのは、原因が仕事量にある方だけです。原因が痛みそのものにある方は、調整しても痛い。……御社の指標は、そこで止まっている」


 言い返せなかった。事実だったからだ。


「御社の健康経営に、次の一手を提案させてください。共同実証事業です。当社の疼痛管理プログラムを御社に導入し、相談から医療への導線を一本増やす。費用は当社が持ちます。データは共同で使わせていただく」


「……疼痛管理プログラム、というのは」


「処方版の治験を、企業単位で行う枠組みです」


 あっさりと言った。隠す気がまったく無い言い方だった。


 隠さないことが、いちばん怖い。この人は、自分のやろうとしていることが正しいと、心から思っている。


「覚書の案は、明日お持ちします」


 御厨は、そこで初めて透のほうを見た。


「柊木さん、でしたね。……あなたのブース、二週間待ちだそうで」


「はい」


「気の毒に。良いものを持っている人ほど、配れない」


 それだけ言って、御厨は次の相手のところへ歩いていった。



 会場の隅で、透は息をひとつ吐いた。


 背後から、声がした。


「また、お会いしましたね。柊木さん」


 振り返る前に、身体が分かった。


 視るものが、そこに無い。人がいるのに、何も無い。


 白瀬が、微笑んで立っていた。半年前と同じ、穏やかな顔で。

 いちばん誇らしい日を狙って刺しに来る。上流の人は、そういう日程の組み方をします。

 次回、思想戦の第2ラウンド。

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