第55話 壇上の来賓
健康経営アワードの通知が来たのは、四半期の報告の三日前だった。
推進室の受賞ではない。メビウスソフトという会社への表彰である。それでも美咲が封筒を持ってブースに降りてきたとき、彼女の霧は、この半年でいちばん薄かった。
「先生。……取れました」
「おめでとうございます」
「私じゃないです、会社です」
「会社の中の、誰かがやったから会社が取ったんです」
美咲は、封筒を胸に抱えて、しばらく黙っていた。それから、鼻をすすった。今日の彼女は、いつもの推進室の顔をしていない。制度の話をするときの顔と、いま封筒を抱えている顔は、別人のものだった。
「評価されたの、相談件数なんですよ。……変ですよね。相談が多い会社が表彰されるって」
「変じゃないです。いい変です」
早期相談ルートの利用件数は、四半期で前期の3倍になっていた。増えた内訳を美咲は一件ずつ読んでいて、そのうち二十いくつかは、施術でも受診でもなく業務調整に流れている。声が上がって、仕事の量が動いた。それが二十いくつ、実際に起きた。
専務の「次の四半期で機能を示せ」という宿題に、彼女は自分の指標で答えを出したのだった。
「業務調整に回った二十いくつのうち、七件は、たぶん去年なら誰か倒れてました」
美咲は、封筒を机に置きながら、そう言った。
「私、その七件の名前、全部言えます。……言えるって、たぶん、いいことですよね」
「いいことです」
表彰式は、都内のホテルの宴会場だった。
美咲と、総務兼務の主任と、専務。それから、なぜか透も呼ばれた。制度の運用実務者として、と書いてあったが、実際は事例紹介のパネルに写真が使われるからだった。
「先生、スーツ持ってました?」
「一着だけ」
「よかった。白衣で来られたらどうしようかと思ってました」
壇上での表彰は、短かった。専務が賞状を受け取り、代表して短いコメントを述べた。制度の設計者として美咲の名前が読み上げられたとき、会場から拍手が起きて、彼女の耳が赤くなった。
いい日である。
いい日は、そこまでだった。
祝賀の懇談に移って、透は壁際で烏龍茶を持っていた。この手の場に慣れていない。慣れていないことを隠すのも面倒で、ただ立っていた。
専務が誰かと話しているのが見えた。相手は、六十前後の男だった。
背は高くない。姿勢が特別いいわけでもない。上等な生地の背広を、上等に見せる気のない着かたをしている。だが、その男が何か言うたびに、専務の相づちの間隔が短くなっていた。
男の声は、遠くて聞こえない。それでも、話し方の骨格が分かった。
断定して、間を置いて、次の断定をする。相手に考える隙を与えないのではなく、考える隙を与えて、その隙が埋まる速度を測っている。そういう話し方だった。
どこかで聞いた気がした。
いや、聞いた。去年の秋、役員会議室の卓上スピーカーから。あのとき、白瀬に「計画は続行してください」と言った声。
美咲が、透の隣に来た。
「先生。あちら、テーミスの」
「常務だそうです。研究開発本部長の」
「名前」
「御厨さん、と」
美咲の手の中で、グラスが小さく鳴った。
署名欄で見た名前だった。真柴が本社へ出した提言を、一行で封じた人間の名前。
御厨が、こちらへ歩いてきた。
真っ直ぐだった。会場の人の流れをまったく気にせず、間にいた人が自然に道を空けた。そういう歩き方をする人間がいるのだと、透は初めて知った。
「小林美咲さん」
「……はい」
「制度の設計者ですね。拝見しました。相談件数を指標に置いた企業は、国内では御社が初めてです。……たいしたものだ」
褒めていた。社交辞令ではなく、本当に評価している声だった。
「恐れ入ります」
「早期に声を拾う。素晴らしい。ただ、拾ったあとが弱い」
御厨は、グラスを持ったまま、少しだけ首を傾けた。
「声を拾って、業務調整に回す。それで解決するのは、原因が仕事量にある方だけです。原因が痛みそのものにある方は、調整しても痛い。……御社の指標は、そこで止まっている」
言い返せなかった。事実だったからだ。
「御社の健康経営に、次の一手を提案させてください。共同実証事業です。当社の疼痛管理プログラムを御社に導入し、相談から医療への導線を一本増やす。費用は当社が持ちます。データは共同で使わせていただく」
「……疼痛管理プログラム、というのは」
「処方版の治験を、企業単位で行う枠組みです」
あっさりと言った。隠す気がまったく無い言い方だった。
隠さないことが、いちばん怖い。この人は、自分のやろうとしていることが正しいと、心から思っている。
「覚書の案は、明日お持ちします」
御厨は、そこで初めて透のほうを見た。
「柊木さん、でしたね。……あなたのブース、二週間待ちだそうで」
「はい」
「気の毒に。良いものを持っている人ほど、配れない」
それだけ言って、御厨は次の相手のところへ歩いていった。
会場の隅で、透は息をひとつ吐いた。
背後から、声がした。
「また、お会いしましたね。柊木さん」
振り返る前に、身体が分かった。
視るものが、そこに無い。人がいるのに、何も無い。
白瀬が、微笑んで立っていた。半年前と同じ、穏やかな顔で。
いちばん誇らしい日を狙って刺しに来る。上流の人は、そういう日程の組み方をします。
次回、思想戦の第2ラウンド。




