第53話 お茶を淹れる係
湯呑みが倒れたのは、火曜の午後だった。
盆に載せようとして、指が縁を掠めた。それだけのことで、湯呑みは横に転がって、まだ熱い茶が机の書類に広がった。
「先生」
涼が、雑巾を持って走ってきた。パーテーションの外で見学していたはずの若者が、内側に踏み込んできたのは、これが初めてだった。
「すみません。手が滑って」
「滑ってません」
涼は、机を拭きながら、はっきり言った。
「盆の縁が、見えてなかったんです。……先生、さっきの施術のときも、鍼を一度置き直しました。トレイの上で、置く場所を探してました」
透は、何も言わなかった。言えることが無かった。
この一週間、目の奥の霞みは濃くなっている。患者の身体は変わらず視える。視えるのに、机の上の物の輪郭だけが、少しずつ遠のく。視るための力を、全部あちらへ振り分けているような状態だった。
パーテーションが開いて、美咲が入ってきた。腕時計を見ていない。今日は、時計を見る前から怒っていた。
「先生の限界は、私が決めます」
「……美咲さん」
「今日は、ここまでです」
去年の秋と、同じ言葉だった。あのとき彼女は、震える声でそれを言った。いまは、震えていない。
「明日の午前、二枠だけ空けます。午後は休んでください。文句は、私が上に言います」
「患者が」
「患者は、先生が倒れたら全員行き場を失います。半年前に習いました」
言い切って、美咲は湯呑みを片づけ始めた。
その後ろで、涼が、まだ雑巾を握ったまま立っていた。
美咲が出ていったあと、ブースには二人だけが残った。
透は、しばらく黙って、それから、涼の顔を見た。
この若者は、四か月、外に立っている。定休日と有休を潰して、パーテーションの外側から、問診の順番だけをノートに写して帰る。断られたことを一度も理由にせず、恨み言も、催促も、一度も言わなかった。
教える余裕は、いまも無い。
それは変わらない。むしろ、以前より無い。目の奥は痛いし、予約表は埋まっているし、断り状を書く夜は増える一方だ。この状況で人を抱えるのは、無責任と言われても仕方がない。
だが。
余裕ができてから始めたことなんぞ、わしは一度もない。
あの夜、思い出した言葉が、まだ胸の内側に刺さっている。
「都築さん」
「はい」
「明日から、中に入ってください」
涼が、雑巾を落とした。
「え」
「弟子にはしません。それは変わりません。……ただ、ひとつだけ、仕事をお願いします」
透は、棚の湯呑みを指した。
「お茶を、淹れてください」
涼は、しばらく、透の指の先を見ていた。
「……お茶、ですか」
「お茶です」
「鍼は」
「打たせません。当分」
落胆したはずである。四か月通いつめて、任されたのが給湯の仕事なのだから。
だが涼は、落胆しなかった。落胆する前に、確かめる顔をした。
「先生。……それ、雑用ですか。それとも、仕事ですか」
いい問いだった。
この若者は、10分の椅子で26人を回してきた。雑用と仕事の区別が、身体に染みている人間である。マニュアルの外にある仕事を、彼はずっと探していた。
「仕事です」
透は、はっきり言った。
「鍼の前に、間を作る仕事です。うちで、いちばん大事な仕事ですよ」
翌日、涼は初めて患者に茶を出した。
相手は、経理部の女性だった。締めの時期の頭痛で、この二か月で三度目の来訪になる。急いで入ってきて、椅子に浅く腰かけて、鞄を膝に抱えたままだった。
涼が、湯呑みを出した。
「熱いので、気をつけてください」
それだけを言って、下がった。余計なことを言わないのが、上等である。
女性は、鞄を抱えたまま湯呑みを受け取った。受け取ってから、置く場所を探すように一度あたりを見て、それから諦めて、両手で包んだ。ひとくち飲んだ。
そこから、三秒くらいだった。
鞄が、膝から降りた。彼女は自分でそれを椅子の脇に置いて、背もたれに、初めて背中をつけた。肩が、二段階で下がった。上げていたことにも気づいていなかった肩が、湯の温度に押されて、勝手に降りた。
透は、まだ何もしていない。
パーテーションの脇で、涼が息を止めているのが分かった。
この二段階を、透は何度も見てきた。人は、緊張しているあいだ、自分が力を入れている場所を知らない。温かいものを持たされて初めて、持っていた荷物のほうに気づく。
問診は、そこから始めればいい。始まりが二分遅くなっても、出てくる言葉の質がまるで違う。
問診が終わって、患者が帰ったあと、涼は湯呑みを洗いながら、しばらく黙っていた。それから、水音の中で、ひとりごとのように言った。
「……これ、施術だ」
透は、答えなかった。答えるかわりに、明日の分の茶葉を、いつもより少し多めに量った。
その夜、涼は帰り際に、こう聞いた。
「先生。僕、明日から何時に来ればいいですか」
「店は」
「辞めました。先週」
透の手が、止まった。
「……相談してくれれば」
「相談したら、止められるじゃないですか」
涼は、笑った。この若者が、透の前で声を出して笑ったのは、初めてだった。
「大丈夫です。夜だけ別の治療院に入れてもらってます。生活はできます。……昼間は、お茶を淹れに来ます」
弟子入り初日の仕事が、お茶淹れ。ですがあれは、本当に施術です。
鍼灸院で修業する方の話を聞くと、最初の一年は掃除と湯とタオルだったという方が本当に多い。
次回、涼が茶を淹れるようになって二週間。変わったのは、患者の顔ではありませんでした。
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