第52話 視えないもの
蓮見の件から、透は少し変わった。
自分では、気づいていなかった。
変わったのは、視方である。患者の身体を視るとき、以前なら表層の霧の濃淡を追って、動くツボを探し当てれば足りた。いまは、その先を視ようとする。均された膜の下に、火がどれだけ残っているか。層の何枚目までが今年の霧か。
視えないところを、視ようとしている。
それは診療の質を上げた。三好の腰は、いまでは何ミリ厚くなったかまで分かる。岡部の腎の薄さも、月ごとの回復が数字のように見えてくる。美咲は「先生、最近すごいですね」と言った。褒め言葉だった。
代償は、目の奥に出た。
鈍い痛みが、こめかみの内側に居座るようになった。夕方になると、視界の端が薄く霞む。文字が読みづらい。患者の霧は相変わらずくっきり視えるのに、机の上の書類の文字だけが、遠い。
倒れる気配は、無い。去年の秋のような、はっきりした限界の感覚が来ないのだ。あのときは分かりやすかった。指がしびれ、立てなくなり、そして倒れた。今回は、そういう坂ではない。
同じ場所を、毎日ほんの少しずつ、削っている。
削れているという自覚が無いのは、削れかたが遅いからだった。昨日と今日の差は、いつも誤差の範囲に収まっている。誤差を三十日ぶん足すと、それはもう誤差ではないのだが、足し算をする係が、この身体にはいない。
「先生、目、細めてます」
金曜の午後、涼が言った。定休日ではないのに来ていた。有休を取ったらしい。
「そうですか」
「さっきの患者さんのとき、二回。カルテを書くときに、こう」
涼は、自分の目を細めてみせた。几帳面な観察だった。この若者は、透が人を観察するのと同じ密度で、透を観察するようになっている。
「歳です」
「32ですよね」
言われて、透は言葉に詰まった。この年齢を口実にできるほど、まだ歳を取っていない。
「……よく知ってますね」
「先生の講演録、読みました。三年前の学会誌の」
透は、少し笑った。それから、笑いのついでに、目の奥の鈍痛を息で押し出した。
押し出せはしなかった。
その夜、最後の患者が帰ったあと、透はブースの灯りを落とさずに座っていた。
考えているのは、あの男の身体だった。
ロビーで名刺を置いていった、テーミス製薬の担当者。あれからずいぶん経ったいまも、あの身体のことが、時々ふっと戻ってくる。
霧が、無かった。
誰にでも、多少はある。健康な人の身体にも、その日の疲れの薄い霧くらいはかかっている。生きて働いている人間で、完全に何も無い身体を、透は白瀬以外に見たことがない。
あのときは、隠されているのだと思った。何かの方法で、視えなくしているのだと。厚い壁の向こうに何かがあって、こちらの眼が通らないだけなのだと。
だが、壁というものは、視えないなりに気配がある。塗り込めた霧は、境目で歪む。この一年に視てきたどの隠しかたとも、あの身体は違っていた。境目が、無かったのだ。
いまは、違う仮説を持っている。
三好の腰。層になった霧。あれをどこまでも重ねていったら、どうなるか。蓮見の膜。あの下の灰。あの灰が完全に冷えたら、何が残るか。
もしかしたら、白瀬の身体は、その先にあるのではないか。
視えないのではなく、視るものが無い。
そこまで考えて、透はいつも止まる。止まって、また最初から考える。あの男の身体を思い浮かべては、目を凝らす。目の前にいない人間の霧を、記憶の中で凝らして視ようとする。
それは、施術ではなかった。ただの執着だった。
白石なら、こういう夜をなんと呼んだだろう。患者のいない部屋で患者でもない人間の身体を睨むことに、あの人が名前をつけていた気がする。思い出せない。思い出せないまま、透はまた同じ場所へ戻る。
三日後、透は自分の手のひらを、長いあいだ見つめていた。
診療の終わった、暗いブースの中である。電気を落とすのを忘れていたのではない。落としてから、また座り直したのだ。
手のひらに、何も視えない。
自分の霧は、以前から視えにくい。去年倒れたときも、視えるのに打てないという無力を味わった。それとは別の話だ。いま自分がやっているのは、自分の手のひらに向かって、視えないものを視ようとすることだった。
白瀬の身体がどうなっているかを知りたい。知りたいというより、視たい。視れば分かる。視れば、何が起きているのか、たぶん自分だけには分かる。
目を凝らす。
こめかみの奥で、細い針で刺すような痛みが走った。
透は、そこでようやく手を下ろした。
誰もいないブースで、自分の声が、少し掠れて出た。
「……視えないものを、視ようとしてる」
言葉にしてみると、みっともない。
白石なら、なんと言っただろうか。たぶん、鼻を鳴らして笑っただろう。透、お前は昔から、分からんもんを睨みつける癖がある、と。睨んで分かるなら、鍼は要らんわい、と。
その先を、思い出せなかった。
師は、この先に何か言ったはずだった。睨むな、の先に。あの人はいつも、否定の後ろに必ず一つ、やるべきことを置く人だったから。
思い出せないまま、透は灯りを落とした。
倒れるより厄介なのは、倒れないまま削れることです。本人が、削れていると思っていないので。
次回、弟子候補が、はじめて先生の限界を見ます。




