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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第17章 効きすぎる薬

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第51話 治った後を、診る

 痛みゼロ外来の待合は、前より混んでいた。


 椅子が二つ増えていて、それでも足りていない。壁の共同研究の掲示は、そのままそこにあった。


「柊木さん」


 真柴は、診察室に入った透を見て、先に名乗るようなことを言った。


「照会の件でしたら、書面のとおりです」


「書面は読みました。よく分かる文面でした」


「では」


「今日は、照会の話をしに来たんじゃありません」


 透は、椅子に座らなかった。立ったまま、鞄から一枚の紙を出して、机の上に置いた。


 蓮見の、この三週間の記録だった。起床時刻、食事量、歩行の距離、日中に横になった回数。美咲が推進室の様式で作り、本人が毎日つけているものだ。医学的な検査値は何もない。生活だけが書いてある。


「あなたを責めに来たわけでもありません。……この人は、あなたに救われました。それは事実です」


 真柴が、紙に目を落とした。


「半年、朝起きられなかった人が、二か月で復帰しました。あなたの薬がなければ、この人はまだ天井を見ていたと思います。……この人自身が、あなたを恩人だと言っていました」


「……そうですか」


「その恩人に、ひとつだけ、お願いがあります」


 透は、少しだけ前に出た。


「あなたは、患者を診てきた。何百人も、画像に写らないというだけで気のせいだと言われ続けた人たちを、あなたが診てきた。それは俺には出来なかったことです。……なら、この人の、治った後も、診てください」


 真柴の目が、上がった。


「治った、後」


「痛みが消えた日を、あなたは終わりとして数えていませんか。カルテは、そこで終わるでしょう。……その先に、二か月あります。この人はその二か月で、火を全部使い切りました」


「私は、経過観察をしています」


「疼痛スコアの経過ですよね」


 真柴は、答えなかった。


「疼痛スコアは、この三週間、ずっとゼロです。会議室で立てなくなった日も、ゼロでした。……あなたのデータの中に、この人が転んだ日は、たぶん記録されていません」


 真柴は、言い返さなかった。壁の時計の秒針だけが、二人のあいだで進んでいた。


 真柴は、机の上の紙をもう一度見た。今度は、上から下まで、時間をかけて。歩行の距離が、日を追うごとに減っていくのが、そこには書いてあった。


「……この様式は」


「うちの推進室の人間が作りました。医療の様式じゃありません。生活の様式です」


「粗いですね」


「粗いです」


「……ですが、これは、私が取っていないデータだ」


 真柴は、紙を手に取った。


「柊木さん。ひとつ、確認させてください。あなたは、この患者に薬をやめさせようとしていますか」


「していません。やめるかどうかは、あなたが決めることです。俺が決めることじゃない」


「なぜ」


「俺は、あなたの代わりになれないからです」


 言ってから、透は自分の言葉に少し驚いた。ずっと喉に詰まっていたものが、そういう形をしていたのだと、口に出して初めて分かった。


「一日8人しか打てない人間が、900人の代わりをやろうとしたら、必ず誰かが落ちます。……だから、代わろうとしていません。あなたに、あなたの持ち場で、もう一度診てほしいだけです」


 真柴は、しばらく紙を持ったままだった。


 それから、椅子を回して、電子カルテの画面を開いた。


「蓮見さんの再診の枠を、取ります。……あなたの言う、治った後の分を」



 蓮見の再診には、透は同席しなかった。医者の診察室は、医者のものだ。


 結果を聞いたのは、その週の終わり、ブースに顔を出した蓮見本人からだった。


 少し痩せていた。だが、目の焦点は戻っていた。


「先生、あの医者の先生、ちゃんと聞いてくれましたよ。俺が会議室で立てなくなった話を、最初から最後まで」


「そうですか」


「それで、こう言われました。……あなたの痛みの数字は、私の外来ではいちばん良い部類です。でも、あなたが良くなったかどうかは、その数字だけでは分からなかった。すみませんでした、って」


 蓮見は、湯呑みを両手で持って、しばらく黙った。


「俺、なんか、それで泣いちゃって。会議室のときの、あの理由の分からない涙じゃなくて。ちゃんと、理由のある涙でした」


「いい涙です」


「先生。……俺、ずっと、動けたら治ったんだと思ってました」


 蓮見は、湯気を見ていた。


「動けることと、治ることは、違うんですね」


 透は、答えずに、湯呑みに湯を注ぎ足した。この人がいま自分で言った一行より、正しい答えを、自分は持っていない。


「三か月、休みます。今度は、ちゃんと」


「はい」


「ちゃんと休むって、けっこう難しいですね。何もしない練習から始めないと」


「一緒にやりましょう。それも、養生なので」


 蓮見は、笑った。二週間前の朗らかな笑い方とは、まるで違う笑い方だった。声は小さかったが、腹の底から出ていた。


 膜の下で、灰の中に、まだ小さい火種があるのを透は視ていた。消えてはいない。消えていなければ、時間が味方をする。



 同じ頃、痛みゼロ外来の診察室で、真柴玲は一通の照会を書いていた。


 今度は、彼女自身の名前で、本社宛てに。


 治験実施計画における評価項目について。疼痛スコアが良好に推移した症例において、倦怠感の消失に起因すると考えられる過活動および機能低下を経験した。同種の事象が他施設で報告されているか。評価項目への追加、および有害事象定義の見直しを検討いただきたい。


 送信して、三日待った。


 返ってきたのは、A4が一枚だった。


 貴施設よりのご提言、拝受いたしました。治験実施計画の設計および評価項目の設定は本社研究開発本部の直轄事項であり、実施施設におかれましては計画書に定める運用に専念いただきますよう、お願い申し上げます。


 真柴は、その文面を二度読んだ。


 二度読んで、いちばん下の署名欄で、目を止めた。


 テーミス製薬株式会社 常務執行役員 研究開発本部長 御厨。


 名前を、彼女は初めて見た。

 「動けることと、治ることは、違う」。この一行を自分で言えたので、蓮見さんはたぶん大丈夫です。

 そして、上流の名前がひとつ落ちました。ここまでお読みくださっている方、ブックマークと評価をいただけると次の章の力になります。

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