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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第17章 効きすぎる薬

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第50話 空焚き

 二週間後の火曜、午後2時。


 蓮見は、取引先の会議室で立ち上がれなくなった。


 商談の途中だったという。資料の説明を終えて、相手方の役員が質問をした。蓮見は、それに答えようとして、口を開いて、何も出てこなかった。言葉が出ないというより、言葉を組み立てる作業そのものが、その場で止まったらしい。


 立とうとして、立てなかった。膝から下に、力の通る道が無くなっていた。


 それから、涙が出た。


 悲しいわけではない、と後で本人は言った。理由が分からないまま、蛇口が壊れたみたいに、止まらなかったのだと。



 連絡を受けて、美咲が車を手配した。透と郷原は、一階のエントランスで待つ。


 運ばれてきた蓮見は、二週間前と同じ背広で、同じように姿勢がよかった。ただ、支えられていないと座っていられなかった。


「……すみません。何が、起きたのか」


 声に、張りがなかった。二週間前の朗らかさが、まるごとどこかへ落ちていた。


「蓮見さん。まず、横になりましょう」


 郷原が、産業医の顔で言った。この人がこの顔をするとき、透はいつも少しだけ安心する。医療者の判断が、いちばん先に立つべき場面だからだ。


 医務室のベッドに横になった蓮見を、郷原が診た。血圧、脈、瞳孔、意識レベル、直近の服薬。手際は速く、迷いがなかった。


「意識は清明。麻痺の所見なし。救急搬送の適応ではないと判断します。……ただし今日中に、かかりつけを受診してください。私から紹介状を書きます」


 それから、郷原は透を見た。


「柊木さん。視えますか」


 訊いてきたのだ。この人が。


「視えます。……膜の下が、二週間前より薄いです。腹の底の火が、灰も残らないところまで来ています」


「膜、というのは」


「痛みやだるさを均している層です。三好さんの腰にあったのと同じもので、蓮見さんは全身に張っています」


 郷原は、しばらく黙って、蓮見の傍らに置かれた薬のシートを見ていた。それから、指先でそれを裏返した。


「……テーミスです。ゼロペインの、処方版だ」


 初めて、その名前が出た。


「去年うちが配っていたものとは、別物です。あれは無承認のサプリ名目でしたが、こちらは医薬品として治験中で、適応も投与量も管理されている。……真面目に作られている。だからこそ、よく効く」


「効きすぎる」


「そう言うしかない」


 郷原は、シートを元に戻した。


「痛みを消す薬は、患者が動きすぎるリスクを常に持っています。それは古くからある問題で、医者はそれを織り込んで処方する。……だが、これは倦怠感まで消す。倦怠感は、患者本人が持っている最後のブレーキです。ブレーキを外した車に、安全運転をしろと言っても意味がない」


 ベッドの上で、蓮見が薄く目を開けた。


「……先生。俺、疼痛スコア、毎日ゼロなんですけど」


「知っています」


「ゼロなのに、なんで」


 答えたのは、透だった。


「数字が正常なままで、人が落ちることは、あります」



 その日、郷原の紹介で蓮見はかかりつけを受診し、翌週から改めて休職に入った。段階勤務ではなく、まず三か月の完全な休職。手続きは、美咲が推進室として通した。


 鍼は、その週から始めた。


「多くは打ちません」


 初回、透は蓮見にそう言った。


「あなたの身体、いま、動かす力そのものが足りていません。ここで強く動かすと、残っている分まで使い切ってしまう。……巡りだけ、最低限つけます。あとは、寝てください」


「それだけですか」


「それだけです。治すのは、あなたが寝ているあいだの身体です。俺は、寝られる身体にするだけで」


 打つのは、一回に二本。足の甲と、腰。時間は十分もかからない。かつて速水陸を一撃で立たせたのと同じ手が、この患者に対しては、ほとんど何もしない。


 週に二度。それ以上は増やさないと決めた。


「先生、今日はここまでです」


 三週目の火曜、パーテーションの外から美咲が声をかけた。腕時計を見ている。


「時間、5分超えてます。あと蓮見さんの前に、4人打ってますよね」


「……はい」


「では、終了です。次は木曜」


 透は素直に鍼を片づけた。あの日、彼女が「先生の限界は、私が決めます」と言ってから、この人はこの役目を一度も手放していない。


 自分の火加減を、自分では測れない。それは、蓮見と自分に共通する、たったひとつの点だった。



 郷原が症例照会を出したのは、その週の終わりだった。


「産業医として、正規の照会です。治験実施施設の担当医師宛て。……患者の同意は取ってあります」


 照会の内容は、簡潔だった。当該薬剤の投与中に、疼痛スコアが良好のまま全身倦怠と機能低下が急速に進行した症例を経験した。倦怠感の消失が過活動を招く可能性について、治験実施計画上の評価項目に含まれているか。含まれていない場合、有害事象としての報告対象になり得るか。


 医者が、医者に宛てた文書だった。


 返答は、四日後に届いた。


 A4が一枚。書式が整っていて、文面はどこも間違っていなかった。


 貴照会の内容は、治験実施計画書に定める評価項目の範囲外であり、当施設の現場判断でお答えできる事項ではございません。治験に関するご照会は、実施計画の管理主体であるテーミス製薬株式会社 研究開発本部へお願いいたします。


 その下に、担当医師名。真柴玲。


「……テンプレートですね」


 透が言うと、郷原は珍しく、鼻で笑った。


「テンプレートです。ただし、これを送ってきたということは、あの人は照会を読んだうえで、答えられなかったということです」


「違いますか。答えなかった、とは」


「違いますね」


 郷原は、書面を封筒に戻した。


「答えられない立場に置かれている医者は、書式で答えます。……あの人は、いま、自分の患者について、自分で答えられない」

 倦怠感は、患者が持っている最後のブレーキ。これを消す薬は、たぶん、よく売れます。

 薬の設計としてはあり得る話で、だからこの章は怖いことになりました。

 次回、柊木先生が、もう一度あの外来へ行きます。

 この薬なら自分も飲むかもしれない、と思った方。その一瞬を、評価かブックマークにしていただけると嬉しいです。

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