第49話 復活の人
その朝、営業部のフロアで、拍手が起きた。
半年ぶりに出社した男が、入り口で少し照れくさそうに頭を下げていた。蓮見。30代後半。三年連続で全社トップだった営業で、去年の暮れに、ある日突然、朝起きられなくなった人だった。
休職の理由は、適応障害。診断名はついたが、本人の実感は「電池が切れた」だったと聞いている。
その蓮見が、背広を着て、鞄を持って、フロアに立っている。
「ご迷惑をおかけしました」
声に、張りがあった。かつてのトップ営業の声だった。誰かが「おかえり」と言い、誰かが肩を叩き、若手が「伝説の人だ」と小さく囁いた。祝福の朝だった。
美咲は、推進室から降りてきて、その光景を廊下から見ていた。透は、ブースの入り口から見ていた。
二人とも、しばらく、何も言わなかった。
「先生。……あの、私、うれしいはずなんですけど」
美咲が、小さな声で言った。
「うれしいです。ほんとに。でも、なんでか、胸のあたりが、ざわっとして」
「勘は、当たってます」
透の目には、あの朝の蓮見が、こう視えていた。
全身に、うっすらと膜が張っている。三好の腰にあった、あの均された霧と同じ質感だった。波がない。凪いでいる。表面だけを見れば、この会社でいちばん健康な身体に見えるほどだった。
問題は、その下だ。
膜の内側が、空だった。
腹の底、身体を動かすための火が置かれている場所。そこが、灰になっている。まだ温かい灰だ。だが、火はもう無い。
人の身体は、動くための熱を、腹の底で焚いている。疲れると火が弱まり、弱まると動けなくなり、動けないから休む。それが正常な回り方だった。
蓮見の身体は、火が消えたまま、回っていた。
空焚きだ、と透は思った。水の入っていない釜を、下から炙り続けている。釜は熱い。触れば熱いから、まだ動いていると誰もが思う。中身が無いことは、割れるまで分からない。
昼過ぎ、蓮見のほうから、ブースに顔を出した。
「柊木先生ですよね。休んでるあいだに、社内に鍼のブースができたって聞いて。びっくりしましたよ」
朗らかな人だった。人に好かれる話し方をする。トップ営業とはこういう人か、と透は妙に納得した。
「復帰おめでとうございます。……お身体、どうですか」
「絶好調です。もう、笑っちゃうくらい」
蓮見は、腕を軽く回してみせた。
「朝が全然違うんですよ。去年の冬なんて、目が覚めても天井しか見えなくて。起き上がるっていう動作が、どうやるのか分からなくなってたんです。それが、今は普通に起きられる。だるさも無い。……あの先生は、恩人ですね」
「駅前の」
「そうです。休職中に紹介されて。3回目の診察で薬が合って、そこからは早かったです。二か月で、この通り」
二か月。
適応障害からの復帰に二か月。早い。早すぎる。
「蓮見さん。ひとつ、いいですか」
「はい」
「復帰されて、今日で何日目です」
「今日で四日目です。もう、フル稼働ですよ。休んだぶん、取り返さないと」
透は、湯呑みに手を伸ばしかけて、やめた。この人に、まだお茶を出す資格が自分にあるか分からなかった。
「……疲れは、感じますか」
「ぜんぜん」
「ぜんぜん、ですか」
「はい。それが薬のいいところだって、先生も言ってました。痛みも、だるさも、消えますよって。実際、消えました」
だるさも、消えます。
その一言に、透の背中が冷えた。
痛みを消す薬は、これまでにもあった。だが、だるさを消すというのは、違う話だ。だるさは、身体が出す最後の看板なのだ。もう火が無いから止まれ、という看板。それを外したら、身体には止まる手段がひとつも残らない。
「蓮見さん。……三日でいいので、半日勤務にできませんか」
「え?」
「うまく言えないんですが、あなたの身体、いま、休みたがってる形をしてます。痛くも、だるくもないと思います。それでも、いま止まれば、たぶん来月が違う」
蓮見の顔から、笑いが少し引いた。引いた顔は、悪意ではなく、純粋な戸惑いだった。
「……先生。俺、やっと治ったんですけど」
「はい」
「せっかく治ったのに、また休めって言われるんですか」
言葉が、出なかった。
この人は、半年間、動けない自分を責め続けたのだ。フロアに戻ってきた朝の、あの照れくさそうな頭の下げ方。ご迷惑をおかけしました、の声の張り。取り返さないと、という言い方。
治ったから、やっと働ける。その喜びの上に、いま自分は、根拠を示せない不安を乗せようとしている。
「……すみません。忘れてください」
「いえ。心配してもらえるのは、ありがたいです」
蓮見は、また朗らかに笑って、フロアへ戻っていった。
背中の膜は、きれいに凪いだままだった。
夕方、美咲がブースに来た。
「先生。蓮見さんの件、産業医の面談を組めますか」
「郷原先生には話しました。ただ、本人が同意しないと、こちらからは動けません」
「同意、しませんよね」
「しないでしょうね」
美咲は、唇を噛んだ。
「私、上に掛け合ってみます。復帰直後は段階勤務にするって、就業規則には書いてあるので。……ただ、本人が『フルでいける』って言ったら、規則より本人の申し出が優先されます」
「そういうものですか」
「そういうものです。休ませるほうが、難しいんです。この会社は、まだ」
窓の外で、営業部のフロアの明かりが灯っている。蓮見の席は、その中でいちばん奥だった。
止めるための言葉を、透は持っていなかった。視えているのに、打てない。視えているものを、証明する手立てがどこにもない。
あの人が転ぶまで、誰も、何も、証明できないのだ。
だるさは、身体が出す最後の看板です。看板を外した建物は、傾いていることに誰も気づけません。
次回、その建物が傾きます。




