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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第16章 養生を、仕組みに

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第48話 月に一度のお茶

 その月のお茶の日、美咲は、少しだけ機嫌がよかった。


 右肩の霧が薄い。目の奥も澄んでいる。役員会で通したという話を、彼女は自分からは言わなかった。言わなかったが、身体のほうが言っていた。


「今月の私、どうですか」


「よく養生できてます。……相当いい夜を過ごしましたね、最近」


「よく寝てます。何日か、朝までまとめて」


「その調子で」


 鍼は、右肩に一本だけ。あとは、いつもどおりほうじ茶だった。


 パーテーションの外では、涼が立ったままノートを開いている。透が問診の最中に何をメモしているのか、書き写しているのだった。施術は見せない約束になっている。彼が見ていいのは、透が人の話を聴いているところまでだった。


「あの子、まだ来てるんですね」


「火曜だけです。定休日らしくて」


「先生、断ったんでしょう」


「断りました」


「断られた人が毎週来てるのを、追い返さないのも、先生ですよね」


 美咲は、湯呑みの向こうで少し笑った。


 その笑い方に、透は覚えがあった。半年前、この人が黒岩に「それは、出来ません」と言った日の顔と、同じ骨格をしている。断れない人だった彼女が、いま、断ることについて他人をからかっている。


「……先生って、ずるいですよね」


「どのへんが」


「自分のことだけ、あと回しにするところ。……あ、これ、ブーメランですね。私が言えたことじゃない」


「言えますよ。あなたはもう、自分を先に数えられる人なので」


 湯気が、二つのあいだで、ゆっくり立ちのぼっていた。


 美咲が、湯呑みを両手で包み直した。


「透さ……いえ、柊木先生」


 言いかけた呼び方を、彼女は途中で仕舞った。


 仕舞うところまで含めて、透には見えていた。見えていたが、視なかったことにした。人の霧を視る仕事をしていると、視ないでおく訓練のほうが、たまに要る。


「なんですか」


「……次のお茶の日、豆大福持ってきていいですか。この前のが、おいしかったので」


「お待ちしてます」


 それだけの話だった。それだけの話が、この人と自分のあいだでは、ちょうどいい速さだった。



 美咲が戻ったあと、涼がノートを閉じて、頭を下げた。


「今日も、ありがとうございました」


「都築さん。何を書いてるんですか、それ」


「……問診の、順番です」


 涼は、少し迷ってから、ノートを開いて見せた。


 几帳面な字で、透が患者に聞いた質問が、聞いた順番どおりに並んでいた。いつからですか。何をしているときが楽ですか。夜は眠れていますか。矢印が引いてあって、患者の答えによって次の質問がどう変わるかが、枝分かれで書かれている。


 その枝の一本一本の横に、小さな字で、こう書き添えてあった。


 この質問のとき、先生は手を動かしていない。


「気づきましたか」


「はい。先生、聞いてるあいだ、絶対に触らないですよね。触りながら聞けば、時間が半分になるのに」


「触ると、答えが変わるんです」


 涼が、はっとした顔をした。


 透は、湯呑みを片づけながら続けた。


「触られてる最中の人は、こっちに合わせた答えを言います。痛いですかと聞かれて、はい痛いですと言う。……先に聴いておかないと、その人自身の言葉が出てこない」


「……メモしていいですか」


「どうぞ」


 涼が、ノートに何かを書き足した。書き終わって顔を上げたとき、その顔には、先週まで貼りついていた申し訳なさが、少しだけ薄れていた。


 悪くない、と透は思った。思ってから、その「悪くない」を、自分の中でそっと押さえた。



 その夜、フロアのテレビに、ニュースが流れていた。


 残業をしている数人が、なんとなく見上げている。経済ニュースの短い項目だった。


 中堅物流企業が、都内の疼痛専門の外来と従業員向けの企業契約を締結。慢性疼痛による欠勤・離職の削減を目的とし、全ドライバーを対象に定期的な受診機会を提供する。国内で初の事例。


 画面に、白い看板が映った。痛みゼロ外来。その痛み、我慢はもう時代遅れです。


 透は、その画面を、しばらく見ていた。


 メビウスソフトの名前は、出なかった。この会社は、いま、別の道を選んだところだ。だから、あちらは別の会社を選んだ。ドライバー。長時間の運転、腰、肩、夜勤明けの身体。痛みで休まれると、車が止まる仕事。


 いちばん、効く場所を選んでいる。


 誰かが、ニュースを見ながら言った。いいなあ、うちもそういうのあればいいのに。


 悪気のない声だった。悪気がないことが、いちばん厄介だった。




 同じ夜、街の反対側の高層ビルで、ひとつの部屋にだけ明かりが残っていた。


 男は、契約書の写しを机の端に揃えて置いた。第一号。その肩書きを取るのに、半年かかっている。半年前、たった一つの会社で失ったものを、ようやく取り返した形だった。


 立ち上がって、マグカップを取ろうとした。


 指が、閉じなかった。


 陶器の落ちる音が、静かな部屋に響いた。破片が床に散って、冷めたコーヒーが絨毯に染みていく。


 男は、驚かなかった。


 自分の右手を持ち上げて、しばらく眺めた。指はある。動く。曲げようと思えば曲がる。ただ、いま、そこに何かがあったという感じが、少しも残っていない。手袋の上から物を持つのに似ていて、その手袋の厚みが、年々増していく。


 時々、消える。最近は、時々の間隔が短い。


 男はしゃがみ込み、素手で破片を拾い始めた。大きいものから順に、几帳面に。


 指の腹に、鋭い縁が食い込んで、白い皮膚が切れた。血が、一筋。


 男は、それを見て、拾う手を止めなかった。


 痛くなかったからである。

 平和な章でした。平和な章の終わりには、たいてい、別の場所の話が入ります。

 次回から第17章。効きすぎる薬の話です。

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