第48話 月に一度のお茶
その月のお茶の日、美咲は、少しだけ機嫌がよかった。
右肩の霧が薄い。目の奥も澄んでいる。役員会で通したという話を、彼女は自分からは言わなかった。言わなかったが、身体のほうが言っていた。
「今月の私、どうですか」
「よく養生できてます。……相当いい夜を過ごしましたね、最近」
「よく寝てます。何日か、朝までまとめて」
「その調子で」
鍼は、右肩に一本だけ。あとは、いつもどおりほうじ茶だった。
パーテーションの外では、涼が立ったままノートを開いている。透が問診の最中に何をメモしているのか、書き写しているのだった。施術は見せない約束になっている。彼が見ていいのは、透が人の話を聴いているところまでだった。
「あの子、まだ来てるんですね」
「火曜だけです。定休日らしくて」
「先生、断ったんでしょう」
「断りました」
「断られた人が毎週来てるのを、追い返さないのも、先生ですよね」
美咲は、湯呑みの向こうで少し笑った。
その笑い方に、透は覚えがあった。半年前、この人が黒岩に「それは、出来ません」と言った日の顔と、同じ骨格をしている。断れない人だった彼女が、いま、断ることについて他人をからかっている。
「……先生って、ずるいですよね」
「どのへんが」
「自分のことだけ、あと回しにするところ。……あ、これ、ブーメランですね。私が言えたことじゃない」
「言えますよ。あなたはもう、自分を先に数えられる人なので」
湯気が、二つのあいだで、ゆっくり立ちのぼっていた。
美咲が、湯呑みを両手で包み直した。
「透さ……いえ、柊木先生」
言いかけた呼び方を、彼女は途中で仕舞った。
仕舞うところまで含めて、透には見えていた。見えていたが、視なかったことにした。人の霧を視る仕事をしていると、視ないでおく訓練のほうが、たまに要る。
「なんですか」
「……次のお茶の日、豆大福持ってきていいですか。この前のが、おいしかったので」
「お待ちしてます」
それだけの話だった。それだけの話が、この人と自分のあいだでは、ちょうどいい速さだった。
美咲が戻ったあと、涼がノートを閉じて、頭を下げた。
「今日も、ありがとうございました」
「都築さん。何を書いてるんですか、それ」
「……問診の、順番です」
涼は、少し迷ってから、ノートを開いて見せた。
几帳面な字で、透が患者に聞いた質問が、聞いた順番どおりに並んでいた。いつからですか。何をしているときが楽ですか。夜は眠れていますか。矢印が引いてあって、患者の答えによって次の質問がどう変わるかが、枝分かれで書かれている。
その枝の一本一本の横に、小さな字で、こう書き添えてあった。
この質問のとき、先生は手を動かしていない。
「気づきましたか」
「はい。先生、聞いてるあいだ、絶対に触らないですよね。触りながら聞けば、時間が半分になるのに」
「触ると、答えが変わるんです」
涼が、はっとした顔をした。
透は、湯呑みを片づけながら続けた。
「触られてる最中の人は、こっちに合わせた答えを言います。痛いですかと聞かれて、はい痛いですと言う。……先に聴いておかないと、その人自身の言葉が出てこない」
「……メモしていいですか」
「どうぞ」
涼が、ノートに何かを書き足した。書き終わって顔を上げたとき、その顔には、先週まで貼りついていた申し訳なさが、少しだけ薄れていた。
悪くない、と透は思った。思ってから、その「悪くない」を、自分の中でそっと押さえた。
その夜、フロアのテレビに、ニュースが流れていた。
残業をしている数人が、なんとなく見上げている。経済ニュースの短い項目だった。
中堅物流企業が、都内の疼痛専門の外来と従業員向けの企業契約を締結。慢性疼痛による欠勤・離職の削減を目的とし、全ドライバーを対象に定期的な受診機会を提供する。国内で初の事例。
画面に、白い看板が映った。痛みゼロ外来。その痛み、我慢はもう時代遅れです。
透は、その画面を、しばらく見ていた。
メビウスソフトの名前は、出なかった。この会社は、いま、別の道を選んだところだ。だから、あちらは別の会社を選んだ。ドライバー。長時間の運転、腰、肩、夜勤明けの身体。痛みで休まれると、車が止まる仕事。
いちばん、効く場所を選んでいる。
誰かが、ニュースを見ながら言った。いいなあ、うちもそういうのあればいいのに。
悪気のない声だった。悪気がないことが、いちばん厄介だった。
同じ夜、街の反対側の高層ビルで、ひとつの部屋にだけ明かりが残っていた。
男は、契約書の写しを机の端に揃えて置いた。第一号。その肩書きを取るのに、半年かかっている。半年前、たった一つの会社で失ったものを、ようやく取り返した形だった。
立ち上がって、マグカップを取ろうとした。
指が、閉じなかった。
陶器の落ちる音が、静かな部屋に響いた。破片が床に散って、冷めたコーヒーが絨毯に染みていく。
男は、驚かなかった。
自分の右手を持ち上げて、しばらく眺めた。指はある。動く。曲げようと思えば曲がる。ただ、いま、そこに何かがあったという感じが、少しも残っていない。手袋の上から物を持つのに似ていて、その手袋の厚みが、年々増していく。
時々、消える。最近は、時々の間隔が短い。
男はしゃがみ込み、素手で破片を拾い始めた。大きいものから順に、几帳面に。
指の腹に、鋭い縁が食い込んで、白い皮膚が切れた。血が、一筋。
男は、それを見て、拾う手を止めなかった。
痛くなかったからである。
平和な章でした。平和な章の終わりには、たいてい、別の場所の話が入ります。
次回から第17章。効きすぎる薬の話です。




