第47話 声を上げられた数
答えは、入江から来た。
制作進行の入江は、23歳になっていた。去年の秋に、痛みも喜びも感じなくなって、5回の施術で焦げが抜けた新人だ。いまは美咲の後輩ではなく、別のチームで、自分の案件を持っている。
推進室に来たのは、相談ルートの案内チラシの文面を見てほしい、と美咲が頼んだからだった。若い社員に読まれる言葉かどうか、当事者に見てもらいたかった。
「うーん。丁寧すぎて、たぶん読まないです」
入江は、遠慮なく言った。この子は、この一年で、遠慮というものを覚えなかったほうの人間になった。
「あの、小林さん。私、ひとつ思うんですけど」
「なに」
「私、去年、けっこう長いあいだ、なんともないと思ってたんです。ほんとに、なんともなかったんですよ。痛くもかゆくもなくて」
「うん」
「でもあれ、たぶん、痛いって言えなくなってから、感じなくなったんだと思うんです。順番が逆じゃなくて。……あのとき、もっと早く痛いって言えてたら、あそこまでいかなかったのかなって」
美咲の手の中で、ペンが止まった。
言えてたら。
「入江ちゃん。……あなた去年、痛いって言おうと思ったこと、ある?」
「ありますよ。何回か。でも、言ったら、じゃあこの案件どうするのって話になるじゃないですか。それを考えると、言う前に飲み込むんです」
「飲み込む前に、言えてたら」
「たぶん、全然違ったと思います」
白い紙の上で、何かが、かちりと噛み合った。
その夜、美咲は書いた。書いて、消して、また書いた。深夜2時に、ようやく一行になった。
測るのは、結果ではない。入口の数を測る。
早期相談ルートの利用件数。それが、この施策の指標だ。
誰かが「ちょっと調子が悪いかもしれない」と言った、その回数を数える。楽になったかどうかではなく、言えたかどうかを数える。
増えれば増えるほどいい。増えるということは、飲み込まれずに済んだ声が増えたということだ。
美咲は、そこから設計を書き始めた。
相談は、上長を経由しない。推進室と産業医と鍼灸ブースの三口の入口を作り、社員はどこからでも入れる。相談の記録は人事評価から完全に切り離す。相談した事実を、上長は照会できない。
相談から先の導線を三本用意する。身体の不調なら鍼灸ブースか産業医へ。眠れない、食べられないなど医療領域の兆候があれば外部の医療機関へ。仕事量や人間関係が原因なら、業務調整の申し立てへ。
そして、相談件数が減った部署は、健康な部署ではない。声を上げにくい部署として、推進室が見に行く。
最後の一行を書いたとき、美咲は、自分の指が少し震えているのに気づいた。
これは、痛みスコアの裏返しだった。あのアプリは「痛みが少ない人が優秀」という設計だった。この指標は「痛いと言えた人が正常」という設計になる。同じ会社で、真逆の設計を回すことになる。
翌日、美咲はブースへ降りていった。
ちょうど昼休みで、透は一人で湯呑みを洗っていた。パーテーションの外に、私服の若い男が立って、何かをノートに書き写している。都築涼だった。定休日らしい。
「先生。ちょっと、見てもらっていいですか」
美咲が差し出した紙を、透は手を拭いてから受け取った。読むのに、思ったより時間がかかった。二度、読んでいた。
「……これ、小林さんが書いたんですか」
「私が書きました。誰にも相談してません」
「聞かなくてよかったんですか。俺に」
「先生に聞いたら、身体の話になるじゃないですか。これは、仕組みの話なので」
透が、少し笑った。それから、紙の真ん中のあたりを指でなぞった。
「相談した回数を数える、というところ。……これ、養生ですよ」
「え」
「養生って、悪くなってから治すんじゃなくて、悪くなる前に整えることです。うちの業界では、上手い医者は病気になる前を治す、という言い方をします。それを、会社の仕組みでやろうとしてる」
透は、紙を返しながら言った。
「仕組みの、養生です。……こんなもの、俺には書けません」
美咲は、返された紙を胸に抱えて、しばらく何も言えなかった。
鍼を持たない人間にも、打てる一本がある。その日、美咲は初めてそう思えた。
役員会は、翌々週だった。
美咲は、痛みスコアを採らない理由から説明した。去年の全社アプリのグラフを一枚出して、その隣に、入江の当時のスコア推移を匿名で並べた。フロアでいちばん優秀だった、ゼロが並ぶグラフだった。
役員の何人かが、隣り合った二枚のグラフを、二度見た。
経営企画の役員が、最初に口を開いた。
「……この指標は、増えるほど良い、ということですね」
「はい。減ったら、私たちが見に行きます」
「増え続けたら、どう説明するんです。相談が多い会社は、問題の多い会社に見えますが」
「問題の多い会社です」
美咲は、はっきり言った。
「問題があるから、去年、うちの社員が二人倒れて、一人は戻ってきませんでした。問題が無くなるまで待って測るなら、測るものは永遠にありません。……声が上がる会社と、声が上がらない会社なら、上がるほうが健全です」
牧野さん、と言いかけて、飲み込んだ。名前を出せば、たぶんこの場は動く。動かしたくなかった。あの人の名前は、説得の道具ではない。
沈黙のあと、専務が、湯呑みを置いた。
「暫定で承認します。……ただし、次の四半期で、この数字が現場で機能していることを示してください。上がっただけの数字なら、来年は無い」
期限がついた。
それでも、通った。
その日の夕方、フロアの隅で、葵が後輩を捕まえていた。
「違う違う。すみませんが、じゃなくて。今週は無理です、って言い切るの。……はい、もう一回」
「い、今週は、無理です」
「よし。じゃあ次、上司相手ね」
断る練習だった。
美咲は、通りすがりに笑いをこらえて、そのまま行き過ぎた。指標に載る一件になるのかは分からない。ただ、あの練習が済んだころ、この会社の数字は少し上がるはずだった。
数字は、何を数えるかを決めた時点で半分決まってしまう。この回のテーマはそこにあります。
「痛いと言えた回数」を成果にする指標は、現実の健康経営でも近い発想が出始めています。
静かな回のあとには、たいてい何かあります。
職場で数えられている数字に心当たりのある方。ブックマークをいただけると、この路線を続けやすくなります。




