第46話 数字になりません
健康経営推進室は、二人の部署だった。
小林美咲と、総務から兼務で来ている年配の主任。フロアの隅に机が四つ並んでいて、二つは空いている。空いた机の上には、産業鍼灸ブースの利用申込書の束と、他社からの見学依頼のファイルが積んであった。
新設から三か月。部署はまだ、走りながら形を作っている最中だった。
その日の午前、美咲は役員会議室にいた。
「小林さん。この施策の効果は、次の四半期の報告で、数字にしてください」
専務の隣に座った経営企画の役員が、資料をめくりながら言った。悪意はない。むしろ丁寧な口調だった。
「私は、この取り組みを続けたいと思っています。ただ、続けるには根拠が要る。産業医の契約も、ブースの運用費も、あなたの人件費も、全部どこかの予算から出ている。……何がどれだけ良くなったのか、示してもらえますか」
「はい」
美咲は、そう答えた。ほかに答えようがなかった。
会議室を出て、廊下の窓のところで、一度だけ立ち止まった。
示してもらえますか。正しい要求だった。半年前の自分なら、素直にありがとうございますと思ったかもしれない。実際、いま自分がやっていることは、数字で示されない限り、来年には消える。
消えたら、誰が困るかを、美咲はもう名前で知っている。
午後から、測るものの候補を書き出した。
一つ目、ブースの利用者満足度。アンケートで5段階。
書いた瞬間に、線を引いて消した。この会社で満足度アンケートを配ったら、全員が4か5をつける。断れない人たちの部署なのだ。低い点をつけると悪いと思う人が、そもそもの対象者なのだから。
二つ目、残業時間の推移。
これは既に総務が出している。だが去年から会社全体で残業規制が入っていて、ブースの効果と切り分けられない。それに、残業時間は減らそうと思えば減る。持ち帰れば減る。
三つ目。
美咲は、そこで手が止まった。
痛みの自己申告スコア。
いちばん素直な指標だった。毎日、社員に自分の不調を十段階で入力してもらう。平均が下がれば施策は効いている。導入も簡単で、アプリなら一週間で作れる。
美咲は、その一行を、しばらく見ていた。
それから、ペンを置いた。
同じものを、この会社は去年やっている。ウェルネス・サポート・プログラム。アプリに毎朝、痛みの点数を入力する。数字はきれいに下がった。フロア全体で2割下がって、テーミスの担当者は役員会でそのグラフを見せた。
あのとき、点数を下げていたのは、配られた白い錠剤だった。
入江は、痛みの点数に毎朝ゼロを入れていた。痛みを感じなくなっていたからだ。あの子のスコアは、社内でいちばん優秀だった。
背中が、すっと冷たくなった。
私は今、同じ紙を作ろうとしている。
測ろうとしているものが同じなら、その指標は、いつか同じ形で裏切られる。痛みの点数がいちばん下がるのは、養生が行き届いた職場ではない。痛みを感じられなくなった職場だ。
美咲は、三つ目の候補にも線を引いた。
紙が、真っ白になった。
夕方、開発課の堀内が推進室に顔を出した。
「小林さん、これ。稼働率の資料、来期から様式変えたから」
差し出されたA4を見て、美咲は、あ、と声を出しそうになった。
欄が、ひとつ増えていた。
稼働人数、稼働率、残工数。その下に、休んだ人数、という欄がある。
「堀内さん、これ」
「うちの部だけね。上には、リスク管理の一環ですって説明してある」
堀内は、少し照れくさそうに、資料の端を指で叩いた。
「前は、休んだ人数って、書かないほうがいい数字だったんだよ。書くと、管理ができてないみたいで。……でも去年、俺が会議室で倒れたとき、俺が休んだ日数はどこにも載ってなかった。俺が倒れたことは、書類の上では一度も起きてないんだ」
「……はい」
「だから、載せることにした。載ってれば、来年の誰かが読む」
言うだけ言って、堀内は帰っていった。相変わらず早口で、相変わらず、部下に「無理か?」と聞くようになった課長の背中だった。
美咲は、その資料をしばらく眺めていた。
これは、いい数字だ。うまく言えないけれど、いい数字だと思った。休んだ人数が増えることは、悪化ではない。休めるようになったということでもある。同じ数字が、二つの意味を持っている。
だから、この数字は単独では使えない。役員会に出したら「休みが増えた」と読まれて終わりだ。
その夜、美咲はフロアに一人だった。
白いままの紙が、机の上にある。候補は三つとも消してある。窓の外は、区画ごとに順番に暗くなっていく、いつもの消灯の景色だった。
測れないものを、測れと言われている。
いや、違う。測れないのではない。私が測ろうとしていたものが、全部、結果だったのだ。楽になりましたか。生産性は上がりましたか。痛みは減りましたか。
結果を測ろうとするたびに、私はあのアプリに戻ってしまう。
じゃあ、何を。
美咲は、ペンの尻で、こめかみを軽く押した。半年前なら、ここで頭痛薬に手が伸びていた。いまは伸びない。伸びないかわりに、答えの出ない問いが、そのまま頭の中に残っている。
「……私、何を測れば、あの半年を裏切らずに済むんだろう」
誰もいないフロアで、声に出してみた。
答えは、返ってこなかった。
測ることそのものを疑うのは、けっこう勇気が要ります。特に、測れと言われている側にとっては。
次回、美咲が答えを見つけます。




