第45話 押しかけ弟子
一週間後の再検査で、岡部の聴力は、ほぼ戻っていた。
医師からは、早く来たのがよかった、と言われたらしい。めまいは消えて、耳鳴りも、静かな部屋でうっすら気づく程度まで下がっている。腰の奥の薄さは、まだ埋まりきっていない。あれは一本では戻らない。透は月に二度の枠を取って、しばらく通ってもらうことにした。
「先生。私、ひとつ聞いてもいいですか」
二度目の施術のあと、岡部は湯呑みを両手で包んだまま言った。
「あの日、先生に、あなたのせいじゃないって言われたじゃないですか。私、あれで泣きそうになったんですけど。……なんで泣きそうになったのか、一週間考えてて」
「分かりました?」
「たぶん、誰にも言われたことがなかったんです。あの仕事、謝るのが仕事なので。私が悪くなくても、私が謝るんです。それを一日80回やってると、だんだん、本当に自分が悪いような気がしてくるんですよ」
湯気の向こうで、岡部は笑った。今度の笑い方は、面接みたいではなかった。
「笑顔で応対するのが評価項目にあるんです。声のトーンとか。だから怒られてる最中も笑うんですけど、あれ、けっこう変な感じですよ。顔だけ別の生き物みたいで」
感情労働、という言葉が、透の頭に浮かんだ。使わなかった。名前をつけると、この人が自分の話を分類してしまう気がした。
「岡部さん。ひとつだけ、お願いがあります」
「はい」
「怒られてるあいだ、笑うのはいいです。仕事なので。……ただ、電話を切ったあと、10秒だけ、笑うのをやめてください。顔を戻す時間です。それだけで、貯金の減り方が変わります」
岡部は、しばらく黙って、それから、やってみます、と言った。
その日の夕方、美咲が推進室から降りてきた。岡部の件で、サポートデスクの体制を見に行ったのだという。
「先生。あの部署、休憩の取り方が決まってないんです。次の電話が鳴らないタイミングで各自、って書いてあって。……鳴らないタイミングって、いつだと思います?」
「ないでしょうね」
「ないんですよ」
美咲は、手帳に何かを書きつけた。書きながら、独り言のように続けた。
「こういうのを、どうやって数字にすればいいんだろう。……休憩が取れてない、って、誰も申告しないんです。取れてないって言うと、取れてない自分が悪いみたいになるから」
その問いは、透に向けられてはいない。だから答えなかった。彼女はいま、彼女の鍼を探している最中なのだと思った。
都築涼は、その週、三度ブースに来た。
一度目は詫びに、二度目は岡部の経過を聞きに、三度目は、何も理由をつけずに来た。パーテーションの外に立って、施術を見て、片づけを手伝おうとして断られて、帰っていく。
四度目に、彼はまっすぐ言った。
「弟子にしてください」
夕方のブースだった。透は湯呑みを洗う手を止めて、振り返った。
「都築さん。あなた、免許を持ってますよね」
「持ってます。二年目です」
「じゃあ、弟子入りする相手が要る立場じゃない。同業者です」
「同業者じゃないです」
涼は、はっきり言った。声は震えていない。震えていたのは、彼が握りしめている手のほうだった。
「僕は、速くなきゃ救えない数がある、ってずっと思ってました。それは、いまも思ってます。予約が取れなくて諦める人を、僕は毎日、椅子に座らせてるんです。それは間違ってないと思う」
「間違ってないですよ」
「でも僕は昨日、速さで人を壊しました」
言い切ってから、涼は、初めて言葉に詰まった。
「一昨日です。……すみません、もう一週間経ってるのに、僕の中でまだ昨日なんです」
透は、湯呑みを置いた。
この若者は、逃げなかった。店長に気にしなくていいと言われたときに、気にしないことを選べたはずである。マニュアルどおりで、記録も残っていて、誰にも責任は問われていない。それでも彼は、休みを潰して、頭を下げに来て、他人の施術の外側に立ち続けている。
資質としては、十分すぎるほどだった。だからこそ、言わなければならなかった。
「……お断りします」
涼の顔から、色が抜けた。
「僕が、あの人を悪化させたからですか」
「違います」
「じゃあ」
「教える余裕が、俺にないんです」
透は、正直に言うことにした。取り繕う言葉を選んでいるほど、この人に対して誠実な状況ではなかった。
「うちは今、予約が二週間先まで埋まってます。断り状を書く夜が週に三日ある。見学に来た他社の人事に説明をして、推進室の資料に協力して、それから、たまに自分が倒れます。……俺は、自分の身体ひとつを回すので手一杯です」
「手伝います。荷物持ちでも、掃除でも」
「そこじゃないんです。教えるというのは、その人の失敗を引き受けることです。あなたが誰かを壊したとき、それは俺の責任になる。俺は今、その一人分を背負う余力を持っていない」
嘘ではなかった。むしろ、いちばん言いたくない本当だった。
涼は、しばらく黙っていた。それから、深く頭を下げた。
「分かりました。……でも、見学は、法律で禁止されてないと思うので」
「……」
「休みの日に来ます。お邪魔はしません」
言うだけ言って、涼は帰っていった。
そして翌週の火曜、彼はまた来た。その次の火曜も。店の定休日に、私服で、パーテーションの外に立って、透が誰の何を聴いているのかを、じっと見ていた。
その夜、透は桐の小箱を開けた。
断った自分の判断は、正しいはずだった。正しいはずのものが、なぜこんなに座りが悪いのか、分からなかった。
思い出したのは、十年前の板の間である。
二十二の冬だった。鎮痛剤で身体を壊して、仕事も家も失って、透は白石の家の前に座り込んでいた。誰かに助けてほしかったわけではない。もう歩けなかっただけだ。
白石は、透を家に入れて、粥を出して、三日目に、こう言った。
「お前、鍼を覚える気はあるか」
なぜ、と聞いた。あんたに、俺を抱える義理はないでしょう、と。
白石は、鼻を鳴らして笑った。
「義理はない。余裕もない。……教える余裕なんぞ、わしにも無かったがなあ」
湯呑みの茶を飲み干して、老人は続けた。
「余裕ができてから始めたことなんぞ、わしは一度もない」
その言葉を、十年、忘れていた。
透は小箱の蓋を閉じ、しばらく、そこに手を置いていた。
断った理由は、いまも正しい。正しいまま、胸の内側に、小さな棘が一本、刺さったままになった。
柊木先生の「余裕がない」は本音です。ただ、その本音には十年前の前例があります。
次回から第16章。今度は鍼を持たない人の番です。




