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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第15章 二人目の聴き手

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第44話 耳は、腎の窓

 岡部が耳鼻科から回されてきたのは、その日の夕方だった。


 診断書のコピーを、美咲がブースへ持ってきていた。急性の感音難聴の疑い。ステロイドの内服が今朝から始まっていて、一週間後に聴力の再検査。医師からは、安静にすることと、心労を遠ざけることを言い渡されている。


「先生。薬は、飲んでもらったままでいいですよね」


「もちろんです。耳は時間との勝負なので、そっちが最優先。……俺がやるのは、その邪魔をしないことだけです」


 透は、パーテーションの外に立っている若い男に目をやった。今日、飛び込みで見学を願い出た鍼灸師。都築涼、と名乗った。頭を下げたきり、まだ顔を上げきれていない。


「都築さん。そこ、見えますか」


「……はい」


「勉強に来たのか、確かめに来たのか、どっちでも構いません。ただ、患者さんの前では、自分を責める顔をしないでください。あの人が気を遣います」


 涼が、はっとしたように背すじを伸ばした。それでいい、と透は思う。この場でいちばん守らなければいけないのは、若い鍼灸師の反省ではない。



 岡部は、きれいに座った。


 背すじを伸ばし、膝を揃え、両手を膝の上で重ねて。涼が言っていたとおりの座り方だった。


「すみません、こんな大ごとにして。私、大丈夫なんですけど」


「大丈夫、はいったん預かります。……お茶、飲めますか」


 ほうじ茶を出した。岡部は、両手で湯呑みを受け取って、ひとくち飲んで、ふう、と息を吐いた。その息が、今日いちばん長い息だったのだろう。肩が、2ミリだけ下がった。


 透は、まだ何もしていない。


 視ている。


 肩と首の板。これは涼が触った場所で、赤く熱を持っている。だが、板の下に、もっと古いものがあった。腰の奥から背中を伝って、首の後ろへ、そこから耳の裏へ。細い煙のような霧が、下から上へ、途切れずに立ち昇っている。


 昇っている、というのが、正確だった。淀んでいるのでも、渦を巻いているのでもない。噴き上がっている。


 そして、腰の奥。霧の立つ根元にあたるあたりが、ごっそりと、薄い。


 冷えていた。空っぽに近かった。


「岡部さん。……最近、夜、眠れてますか」


「寝つきは悪くないです。ただ、2時とか3時に、ぱっと起きちゃって。電話が鳴った気がして」


「鳴ってないのに」


「はい。休みの日でも鳴ります。……変ですよね」


「変じゃないです。よくあります」


 透は、湯呑みを置いた。


「東洋医学では、耳はじんとつながっている、と考えます。腎というのは、腎臓のことというより、身体の芯にある力の貯金みたいなものだと思ってください。頑張るときに、そこから引き出す。……そして、腎を減らすいちばんの原因は、恐れです」


「恐れ」


「怖い、という自覚がなくてもいいんです。次の電話で何を言われるか分からない。その状態で受話器を取る。それを一日80回。……身体のほうは、それを、80回の恐れとして数えます」


 岡部の手が、湯呑みの縁で止まった。


「私、怖がってるつもりは、全然」


「ないと思います。だから、貯金だけが減ります」


 透は、腰の奥の薄さと、耳へ噴き上がる細い霧を、もう一度たどった。芯が空になって、支えを失った気が、行き場を求めて上へ突き上げている。耳鳴りも、めまいも、その通り道にある。


「聞きたくない、って身体が言ってるんです。……あなたのせいじゃない。80回受け取ったら、誰の耳でもそうなります」


 岡部の目が、赤くなった。それでも泣かない。泣くかわりに、深く、息を吸った。



 透はトレイを開け、滅菌パックから細い鍼を一本、取り出した。


 打つ場所は、耳ではない。首でも、肩でもない。


 内くるぶしの、少し上。腰の奥から遠く離れた、足首だった。


 パーテーションの外で、涼が息を呑む気配がした。


 鍼を当てる前に、透は指先で皮膚をなぞる。昨日ならここだったろう、という場所から、今日の一点は、指一本ぶん下へずれていた。ツボは、動く。動いた先を探り当てるまでの数秒が、この仕事のいちばん長い数秒だった。


 見つけた。


 細い一本が、音もなく沈む。


 その瞬間、噴き上がっていた霧の柱が、根元から吸い戻された。


 下へ、下へ。腰の奥の空っぽだった場所に、静かに温かい光が広がって、上へ暴れていた気が、行くべき場所を思い出したように降りていく。耳の裏でざわついていた細かい波が、遠ざかる。首の板が、外側からではなく、内側から、ゆっくりと緩んだ。


「……あ」


 岡部が、湯呑みを取り落としかけた。


「回って、ない。……さっきまで、座ってるのに、ずっと床が斜めだったのに」


「耳鳴りは」


「……まだ、します。でも、遠いです。ずっと耳の中で鳴ってたのが、隣の部屋で鳴ってる感じ」


「上出来です。聴こえのほうは薬とお医者さんの仕事なので、そっちはちゃんと通ってください。俺がやったのは、部屋を静かにしただけです」


 岡部は、しばらく黙って、それから、はい、と言った。


 その返事は、今日ここへ来てから初めて、笑顔のついていない返事だった。



 岡部が帰ったあと、涼は、ずっと立ち尽くしていた。


「……足首、でしたよね」


「はい」


「僕は昨日、肩と首を、10分やりました。いちばん硬いところを、いちばん強く」


「板が張ってたなら、そう触るのが普通です。責める気はありません」


「先生は、10分、聴いてました」


 涼の声が、少し震えた。


「10分聴いて、それから、一本でした。僕の10分と、先生の10分が、同じ長さだって、どうしても思えない」


 透は、鍼を片づける手を止めなかった。この若者に必要なのは、慰めではないと思ったからだ。


「都築さん。ひとつだけ」


「はい」


「ツボは動きますからね。昨日の正解が、今日は正解じゃない」


 涼が、顔を上げた。


「あなたの店のやり方は、部位ごとに手順が決まってるでしょう。あれは、昨日の正解を、大量に配る仕組みです。それで助かる人は、確かにいます。……でも、身体は毎日、位置を変える」


 言い終えてから、透は少しだけ後悔した。言いすぎたかもしれない、と。


 だが涼は、傷ついた顔をしていなかった。


 もっと悪い顔をしていた。足元が抜けた人の顔だった。自分が二年間、毎日26人ぶん積み上げてきたものが、いま、根元から意味を問われている。そういう顔だった。

 打ったのは、耳から遠く離れた足首でした。上で暴れているものは、たいてい下が空だから暴れています。

 次回、二人目の「聴ける者」が扉を叩きます。

 そこじゃない場所に打つ、という発想に唸ってくださった方。よろしければ、評価かブックマークを。


────────────────

【今回の東洋医学メモ】耳は腎の窓


 覚えなくても物語は追えます。お茶のおともにどうぞ。


 東洋医学には「腎は耳に開竅かいきょうする」という言い方があります。腎という蔵の状態は、耳という窓に表れる、という意味です。加齢で耳が遠くなることを、東洋医学が古くから腎の衰えと結びつけて考えてきたのも、この線の上にあります。


 ここでいう腎は、腎臓という臓器そのものより少し広くて、身体の芯にある力の貯金のようなものを指します。生まれつき持っている分と、日々の食事や睡眠で足していく分があって、頑張るときはそこから引き出す。引き出しっぱなしになると、芯が薄くなります。


 そして腎を減らす感情が、恐れです。恐れは気を下に落とすと言われますが、芯が薄くなった身体では逆のことが起きます。下で支えきれなくなった気が、行き場を失って上へ突き上げる。めまい、耳鳴り、寝ているのに2時に目が覚める。柊木先生が岡部さんの身体に視ていたのは、この「下が空で、上が騒がしい」形でした。


 だから、鍼は耳ではなく足首に入りました。騒いでいる場所ではなく、空になっている場所に。……もっとも、急に片耳が聞こえにくくなったときは、まず耳鼻科です。ここは物語でも現実でも、譲れないところなので。

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