第44話 耳は、腎の窓
岡部が耳鼻科から回されてきたのは、その日の夕方だった。
診断書のコピーを、美咲がブースへ持ってきていた。急性の感音難聴の疑い。ステロイドの内服が今朝から始まっていて、一週間後に聴力の再検査。医師からは、安静にすることと、心労を遠ざけることを言い渡されている。
「先生。薬は、飲んでもらったままでいいですよね」
「もちろんです。耳は時間との勝負なので、そっちが最優先。……俺がやるのは、その邪魔をしないことだけです」
透は、パーテーションの外に立っている若い男に目をやった。今日、飛び込みで見学を願い出た鍼灸師。都築涼、と名乗った。頭を下げたきり、まだ顔を上げきれていない。
「都築さん。そこ、見えますか」
「……はい」
「勉強に来たのか、確かめに来たのか、どっちでも構いません。ただ、患者さんの前では、自分を責める顔をしないでください。あの人が気を遣います」
涼が、はっとしたように背すじを伸ばした。それでいい、と透は思う。この場でいちばん守らなければいけないのは、若い鍼灸師の反省ではない。
岡部は、きれいに座った。
背すじを伸ばし、膝を揃え、両手を膝の上で重ねて。涼が言っていたとおりの座り方だった。
「すみません、こんな大ごとにして。私、大丈夫なんですけど」
「大丈夫、はいったん預かります。……お茶、飲めますか」
ほうじ茶を出した。岡部は、両手で湯呑みを受け取って、ひとくち飲んで、ふう、と息を吐いた。その息が、今日いちばん長い息だったのだろう。肩が、2ミリだけ下がった。
透は、まだ何もしていない。
視ている。
肩と首の板。これは涼が触った場所で、赤く熱を持っている。だが、板の下に、もっと古いものがあった。腰の奥から背中を伝って、首の後ろへ、そこから耳の裏へ。細い煙のような霧が、下から上へ、途切れずに立ち昇っている。
昇っている、というのが、正確だった。淀んでいるのでも、渦を巻いているのでもない。噴き上がっている。
そして、腰の奥。霧の立つ根元にあたるあたりが、ごっそりと、薄い。
冷えていた。空っぽに近かった。
「岡部さん。……最近、夜、眠れてますか」
「寝つきは悪くないです。ただ、2時とか3時に、ぱっと起きちゃって。電話が鳴った気がして」
「鳴ってないのに」
「はい。休みの日でも鳴ります。……変ですよね」
「変じゃないです。よくあります」
透は、湯呑みを置いた。
「東洋医学では、耳は腎とつながっている、と考えます。腎というのは、腎臓のことというより、身体の芯にある力の貯金みたいなものだと思ってください。頑張るときに、そこから引き出す。……そして、腎を減らすいちばんの原因は、恐れです」
「恐れ」
「怖い、という自覚がなくてもいいんです。次の電話で何を言われるか分からない。その状態で受話器を取る。それを一日80回。……身体のほうは、それを、80回の恐れとして数えます」
岡部の手が、湯呑みの縁で止まった。
「私、怖がってるつもりは、全然」
「ないと思います。だから、貯金だけが減ります」
透は、腰の奥の薄さと、耳へ噴き上がる細い霧を、もう一度たどった。芯が空になって、支えを失った気が、行き場を求めて上へ突き上げている。耳鳴りも、めまいも、その通り道にある。
「聞きたくない、って身体が言ってるんです。……あなたのせいじゃない。80回受け取ったら、誰の耳でもそうなります」
岡部の目が、赤くなった。それでも泣かない。泣くかわりに、深く、息を吸った。
透はトレイを開け、滅菌パックから細い鍼を一本、取り出した。
打つ場所は、耳ではない。首でも、肩でもない。
内くるぶしの、少し上。腰の奥から遠く離れた、足首だった。
パーテーションの外で、涼が息を呑む気配がした。
鍼を当てる前に、透は指先で皮膚をなぞる。昨日ならここだったろう、という場所から、今日の一点は、指一本ぶん下へずれていた。ツボは、動く。動いた先を探り当てるまでの数秒が、この仕事のいちばん長い数秒だった。
見つけた。
細い一本が、音もなく沈む。
その瞬間、噴き上がっていた霧の柱が、根元から吸い戻された。
下へ、下へ。腰の奥の空っぽだった場所に、静かに温かい光が広がって、上へ暴れていた気が、行くべき場所を思い出したように降りていく。耳の裏でざわついていた細かい波が、遠ざかる。首の板が、外側からではなく、内側から、ゆっくりと緩んだ。
「……あ」
岡部が、湯呑みを取り落としかけた。
「回って、ない。……さっきまで、座ってるのに、ずっと床が斜めだったのに」
「耳鳴りは」
「……まだ、します。でも、遠いです。ずっと耳の中で鳴ってたのが、隣の部屋で鳴ってる感じ」
「上出来です。聴こえのほうは薬とお医者さんの仕事なので、そっちはちゃんと通ってください。俺がやったのは、部屋を静かにしただけです」
岡部は、しばらく黙って、それから、はい、と言った。
その返事は、今日ここへ来てから初めて、笑顔のついていない返事だった。
岡部が帰ったあと、涼は、ずっと立ち尽くしていた。
「……足首、でしたよね」
「はい」
「僕は昨日、肩と首を、10分やりました。いちばん硬いところを、いちばん強く」
「板が張ってたなら、そう触るのが普通です。責める気はありません」
「先生は、10分、聴いてました」
涼の声が、少し震えた。
「10分聴いて、それから、一本でした。僕の10分と、先生の10分が、同じ長さだって、どうしても思えない」
透は、鍼を片づける手を止めなかった。この若者に必要なのは、慰めではないと思ったからだ。
「都築さん。ひとつだけ」
「はい」
「ツボは動きますからね。昨日の正解が、今日は正解じゃない」
涼が、顔を上げた。
「あなたの店のやり方は、部位ごとに手順が決まってるでしょう。あれは、昨日の正解を、大量に配る仕組みです。それで助かる人は、確かにいます。……でも、身体は毎日、位置を変える」
言い終えてから、透は少しだけ後悔した。言いすぎたかもしれない、と。
だが涼は、傷ついた顔をしていなかった。
もっと悪い顔をしていた。足元が抜けた人の顔だった。自分が二年間、毎日26人ぶん積み上げてきたものが、いま、根元から意味を問われている。そういう顔だった。
打ったのは、耳から遠く離れた足首でした。上で暴れているものは、たいてい下が空だから暴れています。
次回、二人目の「聴ける者」が扉を叩きます。
そこじゃない場所に打つ、という発想に唸ってくださった方。よろしければ、評価かブックマークを。
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【今回の東洋医学メモ】耳は腎の窓
覚えなくても物語は追えます。お茶のおともにどうぞ。
東洋医学には「腎は耳に開竅する」という言い方があります。腎という蔵の状態は、耳という窓に表れる、という意味です。加齢で耳が遠くなることを、東洋医学が古くから腎の衰えと結びつけて考えてきたのも、この線の上にあります。
ここでいう腎は、腎臓という臓器そのものより少し広くて、身体の芯にある力の貯金のようなものを指します。生まれつき持っている分と、日々の食事や睡眠で足していく分があって、頑張るときはそこから引き出す。引き出しっぱなしになると、芯が薄くなります。
そして腎を減らす感情が、恐れです。恐れは気を下に落とすと言われますが、芯が薄くなった身体では逆のことが起きます。下で支えきれなくなった気が、行き場を失って上へ突き上げる。めまい、耳鳴り、寝ているのに2時に目が覚める。柊木先生が岡部さんの身体に視ていたのは、この「下が空で、上が騒がしい」形でした。
だから、鍼は耳ではなく足首に入りました。騒いでいる場所ではなく、空になっている場所に。……もっとも、急に片耳が聞こえにくくなったときは、まず耳鼻科です。ここは物語でも現実でも、譲れないところなので。




