第43話 10分の椅子
都築涼の一日は、26人だった。
クイック整体チェーン「リセット10」の駅前店。10分1,000円、予約不要、着替えなし。パーテーションで区切られた椅子が六つ並んでいて、そこに座った人の肩と首と腰を、10分でほぐす。それが涼の仕事だった。
朝10時から夜9時まで、休憩を挟んで、26人。多い日は30人を超える。マニュアルには「一人あたり施術9分・記録1分」と書いてある。9分で肩の張りを取るための手順は、部位別に図解されていた。強さは3段階、時間配分は秒単位まで決まっている。
涼は、鍼灸師の免許を持っている。国家試験に受かって、二年になる。ここでは、鍼は打たない。チェーンの店舗に鍼の設備はないし、10分の枠に鍼は入らない。
入社のとき、店長にこう言われた。免許があるのはいいことだよ、指の理屈が分かってるから。でも、うちで大事なのは速さね。
速さ。涼は、その言葉を悪く受け取らなかった。むしろ、まっすぐ受け取った。
鍼灸院の待合で二時間待つ人がいる。予約が取れなくて諦める人がいる。高くて行けない人がいる。10分1,000円で、駅前で、思い立った日に座れる椅子。それがどれだけの人を助けるか、涼はちゃんと分かっているつもりだった。
だから、26人を、丁寧にやっていた。丁寧に、速く。
その日の19人目が、岡部だった。
「肩、お願いします。……あと、首も、できれば」
30代の女性だった。スーツの上着を椅子の背にかけて、座り方が妙にきれいだった。背すじを伸ばして、膝を揃えて、両手を膝の上で重ねている。10分の椅子に、面接みたいな座り方をする人である。
涼が肩に手を置くと、すぐ分かった。硬い。ただ硬いんじゃなくて、板になっている。首の付け根から肩甲骨の上まで、一枚の板が入っているようだった。
「けっこう来てますね。お仕事、デスクワークですか」
「電話です。サポートデスクなので」
岡部は、そう言って笑った。感じのいい笑い方だった。声も、よく通る。電話の仕事の人の声だな、と涼は思う。
「一日、何件くらい?」
「60件くらいですかね。多い日は80件」
60件。涼の26人より、多い。
「大変ですね」
「いえいえ。慣れちゃえば全然です」
全然です、と言った岡部の首が、その瞬間、わずかに縮んだ。首をすくめるという動きの、十分の一くらいの大きさで。涼の指の下で、板が、ほんの少し厚くなった。
あとから何度も思い返すことになるのは、この一瞬だった。
このとき手を止めていれば。何に首をすくめたんですかと、一言聞いていれば。
けれど涼は、聞かなかった。タイマーが、残り6分を示していた。板は厚い。厚い板を9分でほぐすには、強くいくしかない。強さは3段階、いちばん上を使うことは、マニュアルで許されている。
涼は、親指の腹で、その板を割りにいった。
「……っ」
「痛いですか」
「大丈夫です。効いてる感じ、します」
大丈夫です。その言葉を、涼はこの椅子で一日に何度も聞く。だから、聞き流す訓練ができてしまっていた。
10分後、岡部は「軽くなりました、ありがとうございます」と、来たときと同じきれいな笑顔で帰っていった。首だけが、少し赤い。
揉み返しが出たら、それは好転反応だと説明する。マニュアルにそう書いてある。涼はその一文を、ずっと、あまり深く考えずに読んでいた。
翌朝、店に電話があった。
昨日の夜からめまいがして、朝起きたら左の耳が遠い、と。
店長は、電話口で丁寧に謝って、「施術との因果関係は不明ですが」と前置きをしてから、好転反応の説明をした。受話器を置いて、涼に言った。
「都築くん、記録は?」
「強さ、3で入れました。首も」
「……まあ、記録どおりならうちの責任問題にはならないから。気にしなくていいよ」
気にしなくていい。
その言葉が、腹の底に、冷たく落ちた。
昼の休憩に、涼はスマホで調べた。急に片耳が聞こえにくくなる。めまい。耳鳴り。出てくる言葉は、どれも「早く耳鼻科へ」と書いてあった。発症から一週間以内、遅くとも二週間以内。時間が勝負だと、どのページにも書いてある。
涼は、店長に頭を下げて、その日の午後を空けてもらった。マニュアルには無い行動である。
岡部の勤め先は、駅の反対側のビルだった。メビウスソフト。
受付で名乗ると、しばらくして、若い女性の社員が降りてきた。健康経営推進室、小林、と書かれた名札をつけていた。
「岡部さんは、今日はお休みです。……あなたが、昨日の」
「はい。都築と申します。……本当に、申し訳ありませんでした」
深く頭を下げた涼を、小林は、責めなかった。ただ、少し驚いた顔をした。
「謝りに来る人、初めてです」
「僕が、悪化させたので」
「それは、お医者さんが判断することだと思います。……岡部さんには今朝、耳鼻科に行ってもらいました。私、無理やり予約を取って、送り出したので」
よかった、と涼は思った。心の底から思った。それから、この人が「無理やり予約を取って送り出した」と言ったことに、遅れて気づいた。この会社には、そういうことをする部署があるのか。
「あの、ひとつだけ伺っても。……岡部さんは、その、無理をされる方ですか」
小林は、少し間を置いて、答えた。
「一日80件、クレームを浴びて、全部に謝って、それでも笑って電話を切る人です。……うちの鍼の先生なら、たぶん、座った瞬間に分かると思います」
「鍼の、先生」
「うちの社内に、ブースがあるんです。産業鍼灸師の」
産業鍼灸師。聞いたことのない職名だった。
小林は、名刺を一枚差し出した。それから、思い出したように付け足した。
「岡部さん、耳鼻科のあと、そのブースに寄ることになってます。……見学、されますか」
彼はサボっていたわけでも、雑だったわけでもありません。ただ、10分だったのです。
10分1,000円の椅子は、実在する業態をいくつか混ぜて作りました。あの椅子を悪者にはしたくない、というのが今章の縛りです。
次回、柊木先生の出番です。




