第42話 管理された焦げ
一か月後、三好は約束どおり、お茶を飲みに来た。
「絶好調ですよ。先週、息子とキャッチボールしました。十年ぶりです」
嬉しそうだった。嬉しそうな人の前で、透は、湯呑みを置く手を止めないようにした。
腰の霧は、まだ平らだった。ただ、一か月前と、ひとつだけ違っている。
厚くなっていた。
水平に均されたまま、下から新しい層が足されている。木の年輪のように、あるいは、拭かないまま重ねた床のワックスのように。表面はつるりとして、波ひとつない。その下に、去年の霧と、先月の霧と、今月の霧が、順番に積もっていく。
痛みという合図が消えたぶん、身体は、休む理由を失っている。
「三好さん。仕事量、どうです」
「あ、それが。腰を気にしなくてよくなったんで、倉庫の棚卸しとか、こっちで引き受けられるようになって。総務は人手が足りないので、助かってます」
「……そうですか」
積もる理由が、そこにあった。痛みは、身体が出す残業拒否の通知だ。通知を止めれば、残業は無限に受けられる。
言うべきだった。言えば、たぶん、この人の笑顔は曇る。十年ぶりのキャッチボールに、余計な影がかかる。
透は、鍼のトレイを開かなかった。
「三好さん。ひとつ、お願いがあります」
「なんですか、改まって」
「痛みが消えて、楽になった。それは、否定しません。俺の鍼でそこまで持っていくには、たぶん半年かかりました。……本当に、よかったと思っています」
これは本心だった。本心でなければ、この先は言えない。
「ただ、月に一度だけ、視せてください。打たなくていいんです。腰を見て、お茶を飲んで、最近どれだけ働いたかを教えてくれれば、それで」
「それだけでいいんですか」
「それだけです。……もし、身体のほうが何か言い始めたら、いちばん最初に、俺が気づきます。気づいたら、そのとき初めて、相談させてください」
三好は、少し不思議そうな顔をして、それから頷いた。
「先生、変わってますね。普通、うちで打ちましょうって言いません?」
「言う先生も、いると思います。……俺は、打つより先に、視ていたいので」
三好が帰った後、透は予約表に月一度の枠を書き込んだ。名前の横に、小さく丸をつける。丸は、これから増えるだろう。駅前に流れた人が、いつか戻ってくるための、目印のような丸だった。
薬を止めろとは言わない。言えば、この人は二度と来なくなる。来なくなった人の身体は、誰にも視えない。
視ていられる場所に、いつづける。それが今の俺にできる、たったひとつのことだった。
夕方、ブースの前を、郷原が通りかかった。
最近はこれが珍しくない。産業医のカンファレンスの帰りに、寄っていくでもなく、通りすがりに二言三言だけ置いていく。今日はコートを腕にかけたまま、入り口の柱に軽く寄りかかった。
「駅前へ行ったそうですね」
「耳が早いですね」
「同業の界隈は狭い。……真柴玲。名前は知っていました。学会で2度ほど聞いています」
郷原は、めずらしく、すぐには続きを言わなかった。言葉を選んでいる、というより、言いたくない事実を、順番に並べているようだった。
「あれは、本物です」
柱に寄りかかったまま、郷原は言った。
「私は、痛みは消せばいいと言ってきた人間です。数字が出ればそれでいい、生産性が保てればそれでいい、と。……あの医者は、違う。あの人は、痛みを本気で敵だと思っている。人が痛みで人生を削られるのが、心の底から許せない人だ」
「はい」
「私のような人間なら、あなたは論破できる。実際、されました」
自嘲ではあったが、湿ってはいなかった。この人は最近、自分の失点を事実として扱うのが上手くなっている。
「だが、あれは論破できません。倫理も、実績も、誠実さも、全部あちら側にある。しかも、その誠実さが、いちばん効率よく薬を配る仕組みになっている」
郷原は、ようやく透のほうを見た。
「本物です。……だから、厄介だ」
言い置いて、郷原は行ってしまった。ほうじ茶をどうかと声をかける間もなかった。この人の「凍った川」は、まだ融けていない。
その夜、透は桐の小箱を開けた。
師が最初に手のひらへのせてくれた、細い一本。打つことのない鍼を、灯りにかざす。
真柴の問いが、まだ胸に刺さったままだった。あの人たちが救えますか。救えない。900人を、俺は救えない。8人が精一杯で、丁寧にやれば6人だ。
昔、同じ形の怒りを、白石にぶつけたことがある。
まだ弟子入りして間もない頃だった。透が診た患者が、病院で「異常なし」と言われて帰され、三か月後に動けなくなった。あのとき自分は、白石の家の板の間で、医者なんか、と吐き捨てたのだ。あいつらは診てない。数字しか見てない。
白石は、湯呑みを片手に、しばらく黙って聞いていた。それから、こう言った。
「医者と張り合うな、透」
叱る声ではなかった。若い怒りを、隣に座って眺めているような声だった。
「わしらは医者になれん。医者もわしらになれん。張り合うたら、負けた側の患者が困るだけじゃ」
「じゃあ、どうしろって言うんですか」
白石は、湯呑みを置いて、こう続けた。
「医者には、医者に戻ってもらえ」
あのとき、意味が分からなかった。医者は医者だろう、と思った。
いま、少しだけ分かる気がする。
真柴玲は、医者だ。誰よりも患者を診ようとしている医者だ。その人が、いま何になりかけているのか。あの診察室の壁に貼られた、共同研究の紙の名前を、透は思い出していた。
あの人を、敵にしてはいけない。
あの人には、医者に、戻ってもらう。
「敵を倒す」ではなく「医者に戻ってもらう」。第2部の勝ち方は、少し変わった形になります。
次回から第15章。新しい人物が出てきます。




