第41話 何百人の、実績
痛みゼロ外来の待合室は、静かだった。
平日の午後、椅子は8割ほど埋まっている。それだけ人がいて、この静けさは珍しい。よく見ると、椅子の間隔が広い。背もたれが高く、隣の人と目が合わないように、わずかに角度がついている。腰の悪い人が座って立ちやすい高さで、肘掛けもある。
全部、考えてある。透は受付で自費の初診票を受け取りながら、そう思った。
問診票は、聞いていたとおり3枚あった。痛みの部位、強さ、時間帯、天候との関係。何をしていると楽か。仕事を休んだ日数。それから最後の1枚には、こうあった。
この痛みのせいで、諦めたことがあれば書いてください。
透は、その行をしばらく見ていた。
これは、痛みを数字で管理する紙ではない。痛みに人生を削られた人が、自分の削られ方を書く紙だった。書かせるほうも、読むほうも、覚悟が要る。
「柊木透さん。……ああ、あなたが」
診察室に入ると、白衣の医師が立ち上がった。40代の前半だろうか。髪をきつくまとめた、細身の人だった。名札には、真柴玲、とある。
「メビウスソフトの、鍼の先生ですね。うちの患者さんが何人か、あなたの話をします」
「ご迷惑をおかけしてなければいいんですが」
「迷惑ではないです。……座ってください。患者としていらしたわけではないでしょう」
見透かされていた。透は素直に椅子に座り、それから、いつもの一言を口にした。
「真柴先生。肩、凝ってませんか」
真柴の手が、カルテの上で止まった。
「……藪から棒に」
「すみません。癖なんです。……右の肩甲骨の内側と、後ろの首。あと、目の奥。診察のあいだ、ずっと同じ角度で画面を見てらっしゃるでしょう」
真柴の右肩の内側には、はっきりと霧があった。乾いて、こわばった、働く人の霧だった。ここに座って人の痛みを聞き続けた時間の、そのぶんだけ厚い。
真柴は、少し黙って、それから小さく笑った。笑うと、目の下の隈が濃く見えた。
「よく分かりますね。……でも、それは私の問題です。患者の話をしましょう」
拒絶ではない。順番の話だった。自分の身体を後回しにする人の、いちばん自然な言い方でもある。
「三好さんですね」
真柴は、名前を出さずに来た透に、先に名前を出した。
「うちに来られた経緯も伺っています。あなたのところの予約が取れなかった、と。……責める意味ではありません。事実として、そういう患者さんが増えています」
「はい」
「十年です。あの方は十年、腰の痛みを抱えて、画像には何も写らないと言われ続けてきた。異常なし、様子を見ましょう、ストレスでしょう。何軒回ったと思います? 6軒です。6軒目で、うちに来た」
真柴の声は、静かだった。責める調子ではない。ただ、数を数える人の声だった。
「痛みは主観です。血液検査にも、MRIにも写らない。写らないものは、この国の医療では長いあいだ、無いことになっていました。私はそれを、無いことにしない外来をやっています」
「……立派だと思います。本当に」
「お世辞は結構です。あなたが聞きたいのは、薬のことでしょう」
真柴は、机の脇のファイルを開いた。透にも見えるように、少し角度をつけて。
「新しい鎮痛薬の、医師主導の治験です。うちは参加施設のひとつ。適応と除外基準は厳密に決めています。三好さんは基準を満たしていて、同意書もご本人に十分な説明のうえで取っています。……何か、問題がありますか」
診察室の壁に、掲示があった。共同研究、という見出しの下に、製薬企業の名前がある。テーミス製薬。その並びの、いちばん下に、小さく治験の識別番号が振ってあった。
問題ならある。あるが、それを説明する言葉を、透はまだ持っていなかった。霧が均されている、と言ったところで、この人には見えない。見えないものを根拠に人の診療を止めろというのは、いちばんやってはいけないやり方だった。
「……薬が効いている患者さんに、やめろとは言いません」
「では、何をしに来られたんです」
「経過を、視せてほしいんです。痛みが消えた後も。……痛みが消えることと、身体が元に戻ることは、たぶん、別のことなので」
真柴は、初めて、まっすぐ透を見た。
値踏みではなかった。もっと疲れた目だった。この台詞を、何百回も聞いてきた人の目だ。
「柊木さん。あなたの鍼は、よく効くそうですね。うちに来た患者さんが、何人も言います。あの先生に打ってもらうと、身体が軽くなると」
「ありがとうございます」
「一日、何人打てますか」
息が、詰まった。
「……8人です。丁寧にやると、6人」
「私は、一日に40人診ます。この外来を開いてから、三か月で、900人。そのうち、他院で見放されていた方が、4割」
真柴は、ファイルを閉じた。革の音が、静かな診察室にひとつ落ちた。
「あなたの手技では救えない患者を、私は何百人も診てきました。画像に写らないというだけで、十年、二十年、気のせいだと言われ続けた人たちです。あの人たちに、私は薬を出せる。あなたは、何が出せますか」
答えなかったのではない。
答えが、出てこなかった。
「……あなたに、あの人たちが救えますか」
これまでの敵は「一理ある」でした。この人は、たぶん九理くらいあります。
書きながら、いちばん反論しづらい相手を作るのが結局いちばん怖い、と改めて思いました。
次回、第14章の締めです。




