第40話 駅前の白い看板
異変に気づいたのは、予約表だった。
二週間先まで埋まっていたはずの枠に、ぽつり、ぽつりと空白ができている。キャンセルの理由は、たいてい空欄だった。埋まっているものも、「都合により」の一言で終わっている。
悪い話ではない。混みすぎていたのだから、少し緩むのはいいことだ。そう思おうとして、透は自分の指が予約表の空白をなぞっているのに気づいた。誰が消えたのかを、名前で覚えてしまっている。それが、この仕事のいいところで、面倒なところだった。
三好が顔を出したのは、その空白のひとつだった日の午後である。
「先生、すみません。予約、2回続けて流しちゃって」
総務の三好は、40代の半ば。慢性の腰痛と、十年つき合っている人だった。三か月前にブースへ来て、2回打って、少し楽になったところで予約が取りづらくなり、そのまま間が空いていた。
その三好が、ブースの入り口で、腰に手も当てずに立っている。
「報告に来たんです。……治りました、俺」
声が、明るかった。取り繕った明るさではない。十年ぶんの荷物を、本当に降ろした人の声だった。
「駅前の、あそこですか」
「はい。予約なしで入れるって聞いて、ダメ元で。……先生、怒らないでくださいよ」
「怒りませんよ。楽になったなら、いいことです」
本心だった。ただ、椅子を勧めながら、透はもう三好の身体を視ている。
視えている、はずだった。
腰の奥に、霧はある。十年ぶん積もった、重く古い霧が。だが、その霧が、暴れていない。
慢性の痛みを抱えた身体の霧は、たいてい乱れる。ぐずぐずと渦を巻き、動くたびに逆流し、疲れた日には濁って盛り上がる。人の身体は痛みを訴えるとき、必ず騒ぐのだ。
三好の霧は、静かだった。腰の奥で、水平に、均されている。定規で撫でつけたように平らで、波ひとつない。
「痛みは、まったく?」
「まったくです。朝、起きるときのあの、うっ、ていうのがない。靴下も立ったまま履けます。十年ぶりですよ、十年ぶり」
三好は、その場で腰を反らしてみせた。動きは滑らかで、確かに痛みはなさそうだった。
ただ、反らした瞬間、腰の霧が、一拍遅れて、静かに揺れた。
揺れて、また平らに戻った。何ごともなかったかのように。
「先生。あそこ、いい先生ですよ。俺、正直、駅前の新しい病院なんて、流れ作業だと思ってたんです。でも違った。問診票、A4で3枚ですよ。いつから、どんなときに、何をしてると楽か。それを全部、先生が自分で読んで、一個ずつ聞き直してくれるんです」
「……そうですか」
「痛みの点数を、毎日つけるアプリもくれて。飲む量も、それ見ながら調整してくれるって。ちゃんと診てもらえてる感じ、しますよ」
いい医療の話だった。文句のつけようがない。透が渡している紙の問診票より、たぶん丁寧である。
痛みの点数、というところだけが、耳に引っかかった。前にも聞いている。全社に配られたアプリで、社員が毎朝、自分の痛みを10段階で入力していた。数字が下がれば、施策は成功。そして数字を下げるいちばん確実な方法は、痛みを感じなくさせることだ。
ただ、あのときと今とでは、決定的に違う点がひとつある。あれは会社が配った。これは、医者が出している。
同意書があり、診断があり、除外基準があり、副作用の説明がある。三好は騙されていない。3枚の問診票に自分の十年を書いて、話を聞いてもらって、そのうえで選んだのだ。制度としては、非の打ちどころがどこにもなかった。
「三好さん。ひとつだけ、聞いていいですか。……薬は、何を」
「名前は覚えてないです。白い錠剤で、一日一回。眠くならないし、胃も荒れないって。市販のとは全然違います」
白い錠剤。一日一回。
湯呑みに湯を注ぐ手が、揺れないように、透は少し力を抜いた。
「よかったですね。……月に一度でいいので、こっちにも顔を出してくれませんか。腰を診るというより、経過を見せてもらうだけです」
「え、いいんですか。もう痛くないのに」
「痛くないうちに視ておくのが、俺の仕事なので」
三好は、じゃあお茶飲みに来ます、と笑って帰っていった。歩き方は、確かに軽かった。
その夜、透はブースの灯りを落とさないまま、机の前に座っていた。
視えたものを、順番に並べ直す。
ゼロペインの焦げは、黒かった。真っ黒に焼けた影が、身体のあちこちに散って、境目でじりじりと組織を灼いていた。葵の身体も、入江の身体も、そうだった。だから視ればすぐ分かったし、視えたぶんだけ、腹が立った。
三好の腰は、焦げていない。
黒くも、赤くもない。ただ、平らだった。痛みという波を、根こそぎ均してある。波が消えたのだから、本人には「治った」としか感じようがない。
波のない水面の下で、水がどうなっているかは、上からは見えない。
透は、ペンを置いた。
「……これは、ゼロペインの焦げじゃない」
誰もいないブースで、声に出してみる。声にすると、輪郭がはっきりした。はっきりして、嫌な形をしていた。
「その、次だ」
暴れる霧より、均された霧のほうが厄介です。本人にも周りにも「治った」としか見えないので。
次回、柊木先生があの看板をくぐります。




