第39話 一人ずつ、しか
月に一度のその日は、夕方の最後の枠に、ひっそりと入っている。
予約表の名前は、小林美咲。備考欄には、彼女自身の字で、養生のため、とある。約束どおり、仕事の話はしない。それが月に一度のお茶の、たったひとつの決まりだった。
「はい、今月の私」
美咲はベッドに座って、両手を軽く広げてみせた。透は少し離れて、視る。心臓のまわりは、澄んだままだった。日々の小さな霧は、右肩に少し、目の奥に少し。推進室の激務のわりに、溜めてはいない。溜まる前に、自分でほどいている身体だった。
「うん。よく養生できてます」
「でしょう。白湯、続けてるので」
鍼は、右肩に一本だけ。あとは、ほうじ茶だった。湯呑みをふたつ、湯気の立つあいだ、ふたりとも黙っていた。この沈黙が要るのだと、最近の透は思う。一日じゅう人の話を聴く仕事と、一日じゅう人に説明する仕事。どちらも、黙る時間が薬になる。
「半年、経ちましたね」
先に口を開いたのは、美咲だった。
「私が最初にここへ来た日から、だと、もうちょっと経ちますけど。……あの頃の私に教えてあげたいです。あなた半年後、頭痛薬なしで、月に一度お茶を飲みに来るだけの人になってますよって」
「信じないでしょうね、あの頃の美咲さんは」
「信じません。忙しいので結構です、って言います」
ふたりで少し笑って、それから美咲は、ふと真顔になって透を見た。
「先生こそ、どうなんですか。今月の先生」
「俺ですか」
「月に一度、こっちが視る番です。それも決まりにしましょう。……最近、返事を書く夜が増えてるでしょう。ブースの電気が9時過ぎまでついてる日、私、廊下から数えてますからね」
「……週に二日ほど、ですね」
「三日です。先週は」
推進室は、よく見ている。透は観念して、湯呑みで手を温めた。倒れるほどじゃない。ただ、診療の後の夜に、診療じゃない仕事が積み上がっていくのは、確かだった。
美咲は、それ以上は言わずに、笑いを残したまま、ブースの机の端に目をやった。封筒の束が、先月より高くなっていた。見学依頼。導入相談。取材の打診。丁寧に断った先から、また新しいのが届く。
「……仕事の話、していいですか。一分だけ」
「一分だけ」
「その山、推進室で引き取れるものは引き取ります。制度の見学は私が案内できるし、資料も作れます。でも先生、正直に言ってください。あの山の中に、制度じゃなくて、先生の鍼を見に来る依頼が、どのくらいあります?」
透は、湯呑みを置いた。ごまかせる相手ではないし、ごまかす気もなかった。
「……半分より、多いでしょうね。あのブースの実績で導入を決めたいんじゃなくて、ああいう鍼灸師がほしい、という依頼が」
「ですよね」
美咲は、頷いた。責める調子は、少しもなかった。ただ、推進室の人間の目で、静かに山を見ていた。
「制度はコピーできます。相談ルートも、届け出の様式も、全部書き起こせば、他の会社でも使えます。私、いまそれを作ってます。でも、先生はコピーできません。……それで最近、考えるんです。私たちのこの半年って、モデルケースになるのかなって。モデルって、真似できるから、モデルって言うんですよね」
返す言葉を、透は持っていなかった。
美咲が帰った後、ひとりのブースで、透は封筒の山をもう一度見た。一通ずつ、顔を思い浮かべてみる。この封筒の向こうにも、断れない誰かがいて、食いしばる誰かがいて、眠れない誰かがいる。メビウスの半年が証明したのは、救えるということだ。そして同時に、証明してしまった。救うのに、俺の手が要るということを。
俺は、一人ずつしか打てない。
初めて、その言葉が、胸の中ではっきりと形になった。誇りの形をして、そのまま、限界の形をしていた。
帰り道、駅前で、透は足を止めた。
工事の囲いが外れていた。新しいビルの二階と三階、通りに面したガラス一面に、白い光の看板が入っている。清潔で、大きくて、夜目に遠くからでも読めた。
痛みゼロ外来。
その下に、一回り小さな文字で、コピーが添えられていた。
その痛み、我慢はもう時代遅れです。
予約なし。夜8時まで。保険診療。窓口には、もう灯りがついていて、白衣のスタッフが動いているのが見えた。開院を待つ人の列が、ガラスの内側に、整然と伸びている。あの列の長さは、知っている。うちの予約表と、同じ長さだ。
我慢はもう時代遅れ。……その言葉自体は、間違っていない。間違っていないから、足が動かなかった。
白い光は、静かに、街に灯っていた。半年前より、ずっと正しい顔をして。
同じ夜、街の反対側の高層ビルで、ひとつの部屋にだけ、明かりが残っていた。
真新しいオフィスだった。段ボールはまだ半分も開いていないのに、机の上だけが、定規で引いたように整っている。男は、電気を半分落とした部屋で、小さな白い錠剤をひとつ、指先につまんで、灯りに透かしていた。
白は、静かで、綺麗な色だった。曇りのない白は、それだけで正しく見える。男はそれを、誰よりもよく知っていた。
卓上の電話が、短く鳴った。男は錠剤を置き、受話器を取り、二言三言だけ応えて、切った。それから、窓の外を見た。眼下の駅前に、開いたばかりの白い看板が、小さく灯っている。
「ええ。……今度は、正しい入口から」
誰にともなく、男はそう言った。万年筆の細い字が似合う、穏やかな声だった。
「一人ずつしか打てない」。誇りの言葉と限界の言葉が、同じ形をしているところから第2部は始まります。
次の章では、あの看板の内側に入ります。ここまで面白いと思っていただけたら、ブックマークをいただけると励みになります。




