第38話 二週間待ち
二週間は、長い。
予約表の上では、ただの二行先だった。けれど沢井にとっての二週間には、決断が四十いくつと、半分残した弁当が十いくつ、入っていたはずだった。ブースに入ってきた沢井は、初診の日より、まっすぐ座るのが上手くなっていた。上手くなればなるほど、悪い。
「お待たせしました。二週間ぶんまとめて、視せてください」
ベッドにうつ伏せになってもらい、透は背中に手のひらを置いた。肩から首の霧は、相変わらず重く分厚い。だが芯は、そこにない。手のひらを背中の真ん中、胃の裏側にあたる場所へ滑らせると、指先が小さな強張りに触れた。皮膚の下で、握り込んだ拳がもうひとつあるような、固さだった。
みぞおちの結び目と、背中のこの強張り。表と裏で、同じひとつの場所だった。
「沢井さん。肩こりで来た人にこう言うのもなんですが、あなたの本丸は、肩じゃありません。ここです」
「……胃、ですか」
「胃のあたり、です。東洋医学では、思い悩むと脾を傷める、と言います。脾というのは、まあ、胃腸のはたらき全体のことだと思ってください。悩みごとは頭でするものだと皆さん思っていますが、決断を抱え込む人は、ここで悩むんです。みぞおちで、ぎゅっと結んで」
沢井の呼吸が、枕の上で少し浅くなった。図星の音だった。
「前の会社への義理。今の会社での成果。決めるたびに、両方に頭を下げて、両方の顔色を見て。……その姿勢は、立派ですよ。でも沢井さん、身体の側から言わせてもらうと」
透は、施術用のトレイから、滅菌パックをひとつ開けた。細い鍼を一本、指先に構える。
「辞めた会社への義理より、いまのあなたの昼飯です」
打ったのは、みぞおちでも背中でもなかった。膝の下、すねの外側。胃の経絡が通る、遠い場所だった。沢井が、え、そこですか、と言いかけた、その半瞬。
結び目が、ほどけた。
みぞおちの奥で固まっていた小さな霧が、内側から緩んで、糸をほどくように流れ出す。喉から降りていた細い霧が、行き場を得て、すうっと下へ抜けていく。光の線が、すねから胃の裏まで、静かな波紋になって走るのを、透は最後まで見届けた。
「……あ」
沢井が、うつ伏せのまま、間の抜けた声を出した。
「なんか、その……腹が、鳴りそうです」
「鳴らしてください。二週間ぶんです」
腹の虫は、遠慮なく鳴った。沢井は枕に顔を伏せたまま笑い出し、笑うと余計に鳴る。泣かれるより、よほどいい音だと、透は思う。この人の身体は、涙より先に、昼飯を取り戻すことにしたのだ。
帰り際、沢井は靴を履きながら言った。
「決めるの、やめられないんですよ。それが仕事なので」
「やめなくていいです。決めたあとに、結ばない。それだけ覚えて帰ってください。結びそうになったら、白湯を一杯。それでも固いままなら、また来てください。……予約、二週間先ですけど」
「待てますよ、もう」
沢井は笑って、まっすぐな背中で帰っていった。同じまっすぐでも、朝とは別のまっすぐに見える。定規の線じゃなく、よく干した背広の、まっすぐだった。
その夜、透はブースに残って、断りの返事を書いていた。
見学依頼が二件、導入相談が一件。どれも丁寧な文面で、どれも急いでいた。うちの社員も倒れ始めている、おたくの事例を教えてほしい、と。書きかけては手が止まる。断る理由が、俺の身体がひとつしかないからです、では、返事にならない。
内線が鳴った。美咲だった。
「まだいると思いました。……先生、取引先の人事から、推進室にも同じ依頼が来てます。ブース見学。断っておきますか」
「いえ。推進室で受けられるものは、受けてください。制度の話なら、美咲さんの方が、もう俺より上手い」
「制度の話なら、ですね。了解です。……先生の身体の話は、私の管轄なので、夜9時になったら追い出します。あと15分です」
電話の向こうで、紙をめくる音がしていた。彼女の机の上にも、彼女の二週間が積んであるのだった。
翌週、経過を見に来た沢井は、弁当を完食した話を、手柄みたいに報告した。
「それと、前の会社の後輩に、連絡してみたんです。夜中に思い出してた、あの進行表の件。……あいつ、ちゃんと回してました。俺のやり方じゃないやり方で。俺の穴、もう埋まってたんですよ」
「どうでした、それは」
「ちょっと寂しかったです」
沢井は、正直に言って笑った。
「寂しくて、それから、腹が減りました。変ですよね。義理が一枚降りたら、まず腹が減るんだから」
「変じゃありませんよ。身体は、そういうふうにできてます」
みぞおちの結び目は、もうほとんど視えなかった。喉の細い霧も、糸が切れて薄れ始めている。あとは月に一度、結び癖が戻っていないかを見るだけでいい。
それから、帰り際に、沢井はふと思い出したように付け足した。
「そういえば、駅前に、新しいクリニックができるらしいですよ。うちの若手が言ってました。ブースの予約が取れないなら、そっちに行ってみようかなって。……“痛みゼロ外来”、だそうです」
湯呑みを拭く透の手が、一拍だけ、止まった。
痛みゼロ。その名前の組み立てを、俺は知っている。痛みを、消すべき数字として数える言葉。あの白いカプセルの通称と、同じ文法だった。
「……どんな、クリニックだって言ってました?」
「さあ。でも、夕方でも予約なしで入れて、初診からちゃんと医者が診てくれるらしいです。いいことですよね、選べる場所が増えるのは」
いいことだ。いいことの、はずだった。
沢井を見送った後、透は窓の外を見た。駅前の方角で、新しいビルの工事の明かりが、白く灯っていた。
腹の虫が鳴いたら、その施術は成功しています。涙より先に昼飯が戻る人も、いるのです。
最後に出てきた四文字が、この先ずっと効いてきます。
次回、月に一度のお茶の日です。




