第37話 次の方、どうぞ
お待たせしました。第2部の開幕です。第1部からの方は、あの夕方の「次の方、どうぞ」の直後から読み始めてください。
更新は毎日18時。第2部も最後まで書き上げてありますので、休まずお届けします。
飛び込みの相談は、経理部の人だった。
月末の締めが三日続いて、目の奥が痛い。眠っても抜けない。病院に行くほどじゃないと思うんですけど、と彼は何度も言った。行くほどかどうかを自分で決めなきゃいけない、その線引きに一番疲れるんですよね、とも。
透はお茶を出し、二十分、話を聴いた。肩口に溜まった霧は薄く、まだ新しい。今夜の湯船の温度と、明日の朝の首の回し方をひとつずつ渡して、施術の枠は改めて予約してもらうことにした。空いているのは、二週間先だった。
「二週間、ですか」
「すみません。最近、混んでいて」
「いえ。……なんだか、話しただけで、少し軽くなった気がします」
彼は目の奥を軽く押さえて、笑って帰っていった。湯呑みを洗いながら、透は窓の外を見た。フロアの明かりが、区画ごとに順番に落ちていく。定時から一時間後の、いつもの消灯だった。半年前、この時間の明かりは、まだ全部ついていた。
翌朝のブースでは、その「半年」が、あちこちに顔を出している。
休憩室から聞こえる笑い声。掲示板に貼られた、健康経営推進室からのブース利用案内。回覧で回ってきた開発課の稼働表には、堀内の字で、無理のない線が引かれている。倒れる人の出ないまま四半期を越えたのは、この会社では久しぶりのことらしい。
いい変化だった。ただ、いい変化には、続きがある。
ブースの予約表は、二週間先まで埋まっていた。社員の間で「一度視てもらうといい」が挨拶みたいに流通し始めて、初診の申し込みは週ごとに増えていく。断らずに済む方法を、透はまだ見つけていない。
沢井が再びブースに現れたのは、翌週の金曜、最後の枠だった。
先週の月曜に一度、制度で一応、と言いながらお茶だけ飲んで帰った中途入社の社員である。総務の申し送りには、前の会社を身体を壊して辞めた、とだけあった。名前は、沢井。歳は30代半ば。制作部に、ディレクター職で入った人だった。
「先日は、失礼しました。大したことない、なんて言って。……やっぱり、ちゃんと視てもらえますか」
姿勢のいい人だった。椅子に座っても、背すじが定規で引いたようにまっすぐで、その正しさのまま、降ろし方の分からない荷物を背負っている。肩から首にかけての重く分厚い霧と、喉に絡む細い霧。先週視たのと、同じ組み合わせ。
ただ、今日は電灯の下で、その先が視えた。
喉の細い霧が、糸を引くように胸の奥へ降りて、みぞおちのあたりで、固く小さく結ばれている。霧というより、結び目だった。重い霧は流れもするが、結ばれた霧は、そこから動かない。
「最近、食事はどうですか」
「……なんで分かるんですか」
沢井は苦笑して、白状した。昼の弁当が、半分残る。みぞおちの上に蓋がされたみたいで、喉を通らない。夜中にふっと目が覚めて、気づくと、前の会社で自分が組んだ進行表のことを考えている。あれを引き継いだ後輩は、ちゃんと回せているだろうか。自分が抜けた穴は、誰が埋めているだろうか。
「変な話なんですけど」
沢井は、湯呑みを両手で包んだまま、少し黙った。
「前の会社を、裏切った気がして。身体を壊して辞めたのは、こっちなのに。……今の会社で決断をひとつするたびに、前の会社ならどうしたかな、って考えるんです。考えて、どっちにも義理を立てようとして、決めた後も、ずっと胃のへんが重い」
決める仕事の人が、決めるたびに自分を締めている。喉で飲み込んだ言葉が、みぞおちで結ばれていく。霧の形と、話の形が、きれいに重なった。
「沢井さん。それは、裏切った人の身体じゃありませんよ」
透は、見立ての入り口だけを、そっと渡した。
「裏切れない人の身体です。……続きは、鍼を打ちながら。次の枠が、また二週間先になってしまうんですが」
「待ちます」
沢井は、即答した。それから、少し恥ずかしそうに付け足した。
「二週間先の予約って、なんだか、ちゃんと生きてる人みたいですね。俺、前の会社の最後の年は、明日の予定も入れられなかったので」
沢井を見送って、透は机に戻った。
机の端に、総務経由の封筒が三通、重ねて置かれていた。一通は取引先の人事部から、ブースの見学依頼。一通は同業他社から、導入の相談。一通は業界紙から、健康経営のモデルケースとして取材したい、という打診だった。
メビウスソフトの産業鍼灸ブースは、いつの間にか、社外に知られ始めていた。
断るにも、受けるにも、返事を書くのは透だった。診療の後の夜に、一通ずつ。誰かが倒れたわけでもないのに、封筒の重さのぶんだけ、肩の上に何かが乗っていく。モデルケース、という言葉の重さが、まだ、うまく量れなかった。
湯を沸かし直して、透は予約表をめくった。二週間先まで、名前がびっしり並んでいる。その一つひとつは、ちゃんと、顔の浮かぶ名前だった。
それでいい。それが、いい。
そう思いながら、めくった指が、ふと止まる。この表の外に、何人いるんだろう。予約を諦めた人。申し込む前に、大したことないと飲み込んだ人。あの窓の明かりの、一つひとつの下に。
第2部の一人目は、第1部の最終話に一行だけ出ていた、あの中途入社の方でした。名前を与えると、通行人が患者になります。
次回、沢井さんの施術です。




