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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第12章 身体を取り戻した街

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第36話 肩、凝ってませんか?

 月曜の朝のブースには、新しいお茶の缶と、新しい予約表があった。


 健康経営推進室、という真新しい部署名の入った内線案内も、机の隅に置かれている。担当者の欄には、小林、の文字。先週の金曜、彼女は段ボールひと箱ぶんの荷物を抱えて、フロアの反対側へ引っ越していった。


 最初の予約の時間に、その日の新患は、少し迷った様子で、ブースの入り口に立った。


 中途入社の社員だという。前の会社を、身体を壊して辞めたと、総務からの申し送りにはあった。歳は30代の半ば。姿勢のいい人だった。いい姿勢のまま、ずっと降ろし方の分からない荷物を背負っているような、そういう立ち方だった。


 肩から首にかけて、重く分厚い霧。喉のあたりに、絡みつく細い霧。よく知っている組み合わせだった。この半年で、何度も視てきた。たぶん、これからも、何度も視ることになる。


 街は、まだ、こんな身体であふれている。


 透は、湯呑みをふたつ、盆にのせた。


「どうぞ、座ってください。温かいお茶、入れますから」


 新患は、恐縮しながら椅子に腰を下ろした。大丈夫です、どこも悪くないんですけど、会社の制度で一応、と早口で言った。その言い方も、よく知っていた。


 透は、お茶を差し出して、いつもの一言を、口にした。


「肩、凝ってませんか?」


 何気ない、挨拶みたいな一言。けれどこの半年、この一言から、どれだけのものが始まっただろう。


 頭痛薬をコーヒーで流し込んでいた人が、断り方の先生になった。夢を諦めかけた若者が、ステージに戻った。食いしばっていた人が、言葉を取り戻した。倒れた課長が、言い返す場所を作った。何も感じなくなっていた新人が、痛みと一緒に涙と笑顔を取り戻した。数字しか信じなかった医者が、紹介の基準を聞きに来た。


 この一言は、扉なのだ。身体の声を聴く時間の、いちばん最初の扉。


「え……あ、はい。肩は、まあ、昔から凝り性で。大したことないんですけど」


「そうですか。……ああ、でも」


 透は、微笑んで、指先を自分の首の付け根に当ててみせた。


「凝り性の肩って、実は、いろんな話を覚えてるんですよ。ゆっくり聴かせてください。お茶を飲みながらで、いいので」



 昼休み、ブースに、来客があった。


「近くまで来たので、視察です。健康経営推進室として」


 美咲だった。手には、ふたりぶんの豆大福の包み。彼女はもう患者としてではなく、かといって完全な仕事の顔でもなく、その中間の、いちばん自然な顔でそこにいた。


「新しい部署、どうですか」


「まだ机を拭いただけです。でも、やることのリストは、もう3枚あります。ブース契約の恒久化、産業医連携の窓口、それから、断れない人のための相談ルート。……先生、しばらく忙しくなりますよ。私、遠慮なく仕事を回すので」


「お手柔らかに」


「あ、それと、これ」


 美咲は、思い出したように、一枚の紙を差し出した。異動に伴う、産業鍼灸ブースの利用者引き継ぎの書類だった。利用者氏名、小林美咲。備考欄に、彼女の字で、こう書いてあった。


 初回時の症状は、ほぼ改善。ただし本人の希望により、月1回の利用を継続する。理由:養生のため。


「月1回、来ます。仕事の話は、しません。……それでいいですか、先生」


「ええ。温かいお茶、入れますから」


 美咲は、笑って、午後の仕事に戻っていった。その背中には、もう、心臓へ渦巻く黒い霧はない。日々の小さな霧は、あの人はもう、自分でほどける。



 夕方、最後の予約が終わったあと、透は、机の引き出しを開けた。


 桐の小箱の隣に、一枚の名刺がある。テーミス製薬、白瀬。ロビーで別れたあの日、彼が置いていったものだ。裏には万年筆の細い字で、一行だけ書かれていた。


 「次は、もっと大きな場所で」


 上流は、まだ遠い。師匠を呑んだ白い流れの、いちばん上に何があるのか。俺がまだ美咲にも話せていない、最後の宿題。それを追う日が、いずれ来る。たぶん、そう遠くないうちに。


 透は、名刺を引き出しに戻し、小箱の蓋を、指先でひとつ撫でた。


 窓の外で、街に明かりが灯り始める。あの窓の一つ一つの下に、断れない人がいて、食いしばる人がいて、眠れない人がいて、何も感じないふりをしている人がいる。全部は、救えない。俺のやり方は、量産できない。一人ずつしか、打てない。


 それでも。


 ツボは、動く。昨日の正解が、今日は正解じゃないなら、今日の絶望も、明日の絶望じゃない。身体がそうであるように、人も、会社も、動ける。この半年が、それを証明している。


 予約表の最後の欄に、飛び込みの相談が一件、書き足されていた。


 透は、湯を沸かし直し、新しい茶葉を急須に量って、戸口に向かって、いつもの声で言った。


「……さて。次の方、どうぞ」


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。第1部・全36話、お付き合いくださった皆さまに心から御礼申し上げます。

 頭痛薬をコーヒーで流し込む場面から始まった物語を、「次の方、どうぞ」で締めることができました。

 そして、お待たせしました。白い流れの上流、白瀬さんの「次は、もっと大きな場所で」。柊木先生がまだ話せていない、白石先生の最期の真相。第2部、始まります。

 次回・第37話「次の方、どうぞ」は8月15日18時に公開します。以降は毎日18時の更新です。

書き溜めがありますので、休まず投稿予定です。

 ブックマークと評価、そして感想での応援が、何よりの力になります。それでは、第2部でお会いしましょう。……肩、凝ってませんか? 凝っていたら、今夜は温かいお茶でも。


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