第35話 聴ける者が、一人
テーミス製薬本社、会議室。
白瀬は、報告を終えて、タブレットを閉じた。
スピーカーの向こうの声は、機嫌が悪いわけでも、良いわけでもなかった。数字の報告を数字のまま受け取る、平坦な声だった。
「一社での躓き、か」
「はい。進め方の問題です。医師を経由しない配布は、データの純度は高いが、抵抗も速い。次の展開では、設計を変えます。……製品自体の優位は、揺らいでいません。痛む人は、減りませんから」
「例の、鍼師とやらは」
「柊木透。面白い方ですよ」
白瀬は、そこだけ、少し人間らしい声で言った。
「ですが、彼のやり方は、量産できません。一人ずつしか救えないやり方です。我々のやり方は、一度に10万人を救える。……市場は、最後には量産できるほうを選びます。いつも、そうです」
「計画は続行。次のフェーズの設計案を、月内に」
「承知しました」
通話が切れた会議室で、白瀬は、しばらく窓の外を見ていた。それから、机の上の白い錠剤の見本をひとつ手に取って、照明に透かした。その横顔に何が視えるのかは、あの眼を持つ男が、ここにいない以上、誰にも分からなかった。
日曜日は、よく晴れた。
白石の墓は、郊外の、小さな寺にあった。電車を乗り継いで、駅から坂道を15分。透が花と線香を、美咲が途中の和菓子屋で買った豆大福を提げて、ふたりは石段を登った。
「豆大福、お好きだったんですか」
「ええ。診療の合間に、隠れて食べてました。患者には養生を説くくせに、って言ったら、養生というのはな、楽しみを断つことじゃないぞ、と真顔で返されました」
墓石は、小さかった。白石宗玄、とだけ刻まれている。透は慣れた手つきで桶の水をかけ、花を替え、線香に火をつけた。
美咲は、長いこと、手を合わせていた。
それから顔を上げて、墓石に向かってきちんと頭を下げた。
「初めまして。小林美咲と申します。……白石先生が助けてくださった柊木先生に、私、命を救われました。私だけじゃなくて、会社の、たくさんの人が救われました。先生が透さんを救ってくださらなかったら、私たちは今頃、どうなっていたか分かりません。……ありがとうございました」
風が、木々を揺らした。
透は、鞄から、桐の小箱を取り出した。蓋を開けると、日曜の光の中で、一本の細い鍼が静かに光った。
「師匠が、最初に俺の手のひらにのせてくれた鍼です。これを見るたびに思い出します。響かせるな、聴け、って。……師匠、報告があります」
透は、墓石に向き直った。
「あなたを呑んだ白い流れと、ぶつかりました。全部じゃないですが、一箇所、堰き止めました。あなたが言ってたとおりでしたよ。効率を求める時代が来る。痛みを薬で黙らせる時代が。そのとき、身体の声を聴ける者が、一人でも残っていないといけない。……その言葉のおかげで、俺は、鍼を置かずにいられました」
そして透は、ずっと言えなかったことを初めて口にした。
「あの日、間に合わなくて、すみませんでした。倒れていくあなたに、何も言えなくて、すみませんでした。……ずっと、それを言えないまま、ここに通ってました。でも、もう、謝るのは今日で終わりにします。代わりに、約束します。俺は、倒れません。倒れない方法を覚えました。聴ける者は、もう、一人じゃなくなったので」
隣で、美咲が、そっと目元を拭った。
帰り道の坂の途中で、美咲は、立ち止まった。
「先生。決めたことの話、します」
彼女は、まっすぐに透を見た。
「私、健康経営推進室に、志願しました。役員会のあと、専務が新しく作るって決めた部署です。社内公募が出て……昨日、内定をもらいました。来月から、異動です」
「……制作進行は、いいんですか。ずっと、頑張ってきた仕事でしょう」
「頑張ってきたから、分かったんです」
美咲は、迷いなく言った。
「進行管理って、締切から人を守る仕事だって、私、途中から思うようになりました。でも、会社全体だと、守る仕組みそのものが、まだないんです。ブースの契約も、産業医との連携も、断れない人の逃げ道も、全部、誰かが偶然頑張ったから、今回はうまくいっただけで。……それを、仕組みにする側に、回りたいんです」
それから彼女は、少しだけ、いたずらっぽく笑った。
「最初は、先生の助手になろうかとも、思ったんですよ。受付とか、予約管理とか、たぶん向いてるし」
「……それは」
「でも、やめました。それだと私、また誰かの隣で『支える人』になっちゃうから。そうじゃなくて。先生の隣で、じゃなくて、私は私の場所で、同じ方を向きます。先生はブースで一人ずつ。私は制度で、まとめて。それで、たまに……ううん、ちゃんと定期的に、お茶を飲みに行きます。患者としてじゃなく」
いい子だから、でもなく。誰かのため、でもなく。自分で選んだ場所を、自分の言葉で言い切った人が、そこに立っていた。初めて会った日、心臓に黒い渦を巻いて、大丈夫です、と繰り返していた人と、同じ人だとは思えなかった。いや、と透は思い直す。同じ人だ。ずっと、この人だったのだ。霧の下にいたのが、ずっと。
「……立派になられて」
「何ですか、その親戚のおじさんみたいな感想」
ふたりの笑い声が、坂道の上の墓地まで、届いたかどうか。
届いていたら、あの毒舌の師匠は、きっとこう言っただろう。透、お前は本当に、いい患者を持ったな、と。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「聴ける者は、もう、一人じゃなくなったので」。柊木先生が墓前で謝るのをやめて、約束に切り替えた瞬間が、この物語の第1部で彼が受け取った、いちばん大きな救いだと思っています。
そして美咲の選んだ道は、「先生の隣」ではなく「自分の場所」でした。この距離感を、私はとても大切に書きました。
一方で、白い会社の計画は「続行」だそうです。量産できる救いと、一人ずつの救い。この勝負は、まだ終わっていません。
次回、いよいよ最終話。第36話「肩、凝ってませんか?」。すべては、この一言から始まりました。
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