第34話 もとどおり、じゃなく
午後6時のフロアに、席を立つ音が、ぱらぱらと響く。
プログラム中止から、ひと月が経った。会社は、もとどおりになったわけではなかった。もとどおりよりも、少しだけ、いい場所になろうとしていた。
定時で消える島が、増えた。全部ではない。締切前の島は今日も明かりが残っているし、黒岩は相変わらず声が大きい。ただ、その黒岩が、仕事を振る前に「今、どのくらい抱えてる?」と聞くようになった。たった一言、順番が変わっただけだ。それだけで、部下たちの肩の霧は、目に見えて軽くなった。
休憩室には、人が戻った。
「小林さーん、これ、実家から届いたみかんです。配ってて」
入江が、袋を抱えて給湯室に顔を出す。彼女の焦げは、5回の施術で、ほとんど取れた。今の彼女は、よく笑い、よく食べ、締切前には「今週ちょっと無理してるんで、来週休みます」と宣言する。痛みも、疲れも、ちゃんと感じる。感じた上で、自分でやりくりする。それは彼女が白い粒と引き換えに手放しかけて、取り戻したものだった。
「そういえば矢代さん、最近、顔つき変わりましたよね」
「らしいよ。夜、眠れてるんだって。同期がどうとかより、自分の企画を面白がる時間が増えたって言ってた」
堀内は、月に2回、ブースに通ってくる。こめかみの霧は薄くなったが、ゼロにはならない。中間管理職の霧は、完治するものではなく、付き合っていくものだ。その代わり、彼は噛み潰す前に、言葉を出す場所を覚えた。会議で、面談で、ときどきブースの湯呑みの前で。
その日の最終枠のあと、ブースの戸口に、見慣れた白衣が立った。
「……忙しいところ、失礼する」
郷原だった。彼は入り口で少し迷ってから、患者用の椅子ではなく、その手前の丸椅子に、浅く腰かけた。
「折り入って、聞きたいことがあります。私のクリニックの患者で、薬を減らしたいという者が、この頃、増えましてね。全員に鍼が向くとは、私は思っていない。だが、向く者もいるのでしょう。……どういう患者を、あなたに回すべきか。その基準を、教えてもらいたい」
透は、少しの間、この光景を眺めた。鍼をオカルトと呼んだ産業医が、紹介の基準を聞きに来ている。世界は、劇的には変わらない。けれど、確かに変わる。
「基準は、簡単ですよ。薬で痛みが消えても、眠りと食欲が戻らない人。それから……診察室で、本当のことを話せていない気がする人。そういう人は、身体のほうに聞いたほうが早い」
「……ふん。非科学的な基準だ」
そう言いながら、郷原は手帳にメモを取った。透が湯呑みを差し出すと、彼は一瞬固まり、それから、諦めたように受け取った。
「……いただこう。今日は、忙しくない」
ほうじ茶を一杯ぶんの時間だけ、郷原はいて、帰っていった。彼の胸の奥の、凍った川は、まだ凍ったままだ。それでも帰り際、戸口で振り返った彼の言葉を、透はしばらく忘れられなかった。
「鍼師どの。あんたの師匠というのは……いい医者だったんだろうな。あんたを見ていると、そう思う」
週末が近づいた金曜の夜、美咲がブースに来た。
例の、何かを決めた人の顔のままだった。あの夕方、フロアで言いかけた「決めたこと」を、彼女はまだ話していない。何度か聞こうとしたが、そのたびに彼女は、もう少し待ってください、と笑うだけだった。
「先生。日曜って、空いてますか」
「日曜、ですか。ええ」
「決めたことの話、ちゃんとした場所で、したいんです。それで、あの……変なお願いなんですけど」
美咲は、少し照れたように、けれどまっすぐに言った。
「白石先生に、会わせてもらえませんか。お墓参り、ご一緒させてほしいんです。私、あの方に、お礼を言わなきゃいけない気がして。先生を助けてくれて、ありがとうございましたって。……それから、決めたことの報告も、あの方の前でしたいんです。聞いていてもらいたいので」
透は、返事の前に、一度だけ、目をつぶった。
師匠の墓には、ずっと、ひとりで通ってきた。命日と、迷った夜と、報告したいことができた日に。あの場所に誰かを連れて行くことを、考えたことすら、なかった。
「……喜ぶと思います、師匠も」
声が、少しだけ掠れたのは、湯気のせいということにした。
「にぎやかなのが、好きな人でしたから」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
もとどおり、じゃなく。定時の音、みかんの袋、「今、どのくらい抱えてる?」の一言。派手な奇跡はひとつもありませんが、こういう変化のほうが、たぶん長持ちします。
郷原先生とほうじ茶一杯ぶんの休戦、書けて満足です。あの人の凍った川の話は、いつか、ちゃんと書ける日が来る気がします。
次回、第35話「聴ける者が、一人」。白石先生のお墓の前で、美咲の「決めたこと」が明かされます。
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