第33話 霧の晴れる日
役員会の日、透は、会議室にいなかった。
ブースで、いつもどおり、朝いちばんの患者を診ていた。戦いの場所は人それぞれだと、昨夜、皆で決めたのだ。会議室で数字を戦わせるのは郷原と美咲たち、フロアで身体を支えるのは透。役割の分担だった。……もっとも、湯呑みを持つ手が、いつもより少しだけ落ち着かないのは、どうしようもなかったが。
会議室では、白瀬のプレゼンが、完璧に進んでいた。
全社平均の痛みスコア、81%改善。プログラム参加率、9割超。導入企業3社での生産性推移。スライドは美しく、数字は嘘をつかず、声は穏やかだった。締めくくりに、白瀬は静かに言った。
「痛みは、御社の社員の皆さまから、集中と時間を奪ってきました。私どもは、それをお返ししただけです。数字が、それを証明しています」
拍手こそ出なかったが、役員たちの空気は、悪くなかった。
次に立ったのが、郷原だった。
「ヘリオス産業医クリニックの郷原です。産業医として、本プログラムの安全性に関する懸念を上申します」
スライドは、飾り気がなかった。処方記録。増量後の訴えの推移。動悸、無気力、感覚鈍麻の症例数。そして、テーミス社内資料に記載された、改良版の治験段階における有害事象の一覧。
「白瀬さんの数字に、嘘はありません。痛みスコアは、確かに下がっています。私が申し上げるのは、その数字が『何を測っていないか』です。痛覚の抑制は、危険の察知能力の抑制です。この六週間で、社内の労災性の軽傷……切創、打撲、転倒は、報告ベースで2.3倍。痛みスコアと引き換えに、皆さんは、社員が『怪我に気づく能力』を差し出している。さらに申し上げれば、発売前の医薬品成分を、医師の管理外で、サプリメントと称して社員に常用させる行為の法的リスクについて、顧問弁護士の見解を取ることを強くお勧めします」
会議室の空気が、変わった。
数字には、数字。医学には、医学。白瀬の眼鏡の奥の目が、初めて、細くならずに、郷原を見た。
「続けて、現場からの報告です」
美咲が立った。残業時間の増加、手戻りの増加、部署別の集計。黒岩の作った品質事故の一覧。そして最後に、彼女は、一人の若い社員を、扉の外から呼び入れた。
入江だった。
彼女は、緊張で真っ白な顔のまま、それでも、まっすぐに立った。
「制作進行の、入江です。私の痛みスコアは、ずっとゼロでした。部署で一位でした。……その間に私、紙で指を切っても、気づきませんでした。徹夜しても、疲れたって思いませんでした。配属された頃は悔しくて泣いたりしてたのに、何も感じなくなってて、それを、調子がいいんだと思ってました」
入江は、包帯の取れた人差し指を、そっと持ち上げた。
「今は、切ったら痛いです。夜になったら眠いです。それって、すごく、当たり前のことなんですけど。……その当たり前を、私、あの白い箱に、渡しちゃってたんです。自分でも気づかないうちに。スコアがゼロっていうのは、そういう意味でした」
涙の話では、なかった。
それは、白瀬の数字がいちばん誇っていた「ゼロ」という値の、中身の報告だった。誰も、反論しなかった。できなかったのだ。
専務が、ゆっくりと立ち上がった。
「採決する。ウェルネス・サポート・プログラムは、本日をもって中止。テーミス製薬との協賛契約は解除。全社員のデータ提供を停止し、提供済みデータの取り扱いは法務が引き取る。……異議は」
なかった。
昼過ぎ、ロビーで、白瀬は透に行き合った。
敗者の顔は、していなかった。彼は機材のケースを提げたまま、いつもの会釈をした。
「お見事でした。……いえ、正確に言えば、負けたのは私ではなく、進め方です。医師を外したのは、拙速でした。データの純度を優先しすぎた。本社には、そう報告します」
「白瀬さん。一度だけ、聞かせてください」
透は、静かに言った。
「あなたは、なぜ、痛みを消したいんですか」
白瀬は、少しだけ黙った。その沈黙は、彼のプレゼンのどの間よりも、長かった。
「……痛みに、良いことなど、ひとつもないからですよ。私は、それを知っているんです。誰よりも」
一瞬だけ、微笑みの下に、何かが見えた気がした。けれどそれは、透の眼をもってしても、形になる前に、消えた。この男の身体には、今日も、霧のひとつも視えなかった。
「柊木さん。あなた方は今日、私の計画を止めた。ですがね、痛みに耐えるだけの社会も、いずれ限界が来ます。痛む人は、減らない。増える一方だ。その日、人々が手を伸ばすのは、あなたの鍼か、私の白い粒か。……勝負は、これからですよ。また、お会いしましょう」
白瀬は、去った。倒れてはいない。退いただけだ。それでも、フロアに積もり続けていた白い流れは、今日、確かに、堰き止められた。
それからの数週間を、後にフロアの皆は「調律週間」と呼んだ。
返却された白い箱は、段ボールで11箱。薬の切れた身体は、抑えられていた声をいっせいに上げ、ブースの予約表は連日埋まった。透は、一人ずつ打った。深追いはせず、浅く、確実に、一人ずつ。美咲が時間を区切り、葵と入江が受付を手伝い、堀内は課の勤務表を組み替え、郷原は離脱症状の重い者を医学の側から支えた。
ある日の午後3時、フロアの真ん中で、誰かが、うーん、と大きく伸びをした。
つられて、もう一人。あくびがひとつ、笑い声がひとつ。休憩室に湯気が戻り、目薬を差す人が戻り、肩を回す音が戻ってきた。
その夕方、透は、フロアの端に立って、視た。
焦げの海は、消えていた。
机の一つ一つに、一人ずつの色が戻っていた。過労気味の重い霧も、締切前の速い渦も、まだあちこちに残ってはいる。完璧な健康など、どこにもない。けれど、それらは全部、それぞれの色で、それぞれに流れていた。管理された均一な黒ではなく、生きている人間の、雑多で、賑やかな色だった。
窓からの夕日の中で、フロア全体が、淡い水色の光を、静かに取り戻していくのが視えた。
お前が倒れたら、お前が救うはずだった誰かも、一緒に倒れる。
いつかの白石の声が、よみがえる。
(師匠。……その誰かが、今、目の前で笑ってますよ。俺は倒れませんでした。倒れない方法を、みんなが教えてくれたので)
振り向くと、美咲が立っていた。夕日の中で、彼女は、何かを決めた人の顔をしていた。
「先生。私、決めたことが、あるんです」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
プログラム中止。白い流れは、堰き止められました。決め手は柊木先生の鍼ではなく、郷原先生の数字と、美咲の集計と、入江ちゃんの「ゼロの中身」の報告でした。彼が半年かけて整えてきた人たちが、彼のいない会議室で勝った。それがこの章の、いちばん書きたかったことです。
そして白瀬さんは、退いただけ。「勝負は、これから」だそうです。第2クールで、またお会いすることになりそうです。
次章、最終章「身体を取り戻した街」。美咲の「決めたこと」から始まります。
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