第32話 言える人たち
面談室には、3人が待っていた。
経営企画部長、人事課長、そして記録係。長机の向こうに3人、こちらに椅子が一脚。座る位置だけで人を小さくさせる、そういう部屋だった。
「小林さん。単刀直入に伺います。プログラムの返却を、社内で組織的に呼びかけていますね。全社施策への妨害と受け取られかねない行為だと、認識はありますか」
半年前の美咲なら、この時点で謝っていた。すみません、そんなつもりでは、と。期待に応えられない自分への恐怖が、思考より先に頭を下げさせていた。
今の美咲は、まず、息を吐いた。
「呼びかけては、いません。断り方を聞かれたので、答えました。それが広がったのだとしたら、それだけ、断りたかった人が多かったということだと思います」
「屁理屈に聞こえますが」
「では、事実の話をします」
美咲は、持参したファイルを開いた。
「プログラム導入後の六週間で、私の部署の平均残業時間は21%増えました。痛みスコアは下がったのに、です。痛くないから、帰らないんです。それから、制作進行が把握しているだけで、進行ミスと手戻りが1.4倍。感覚が鈍った状態で長時間働けば、当然そうなります。数字がお好きなら、痛みスコアだけじゃなくて、こちらの数字も見てください」
部長の眉が、動いた。
「それは、あなたの部署のローカルな」
「同意の話も、させてください」
美咲は、引かなかった。
「同意書には、データの第三者提供も、内容の予告なき変更も書いてありました。でも、あの箱は、全員の机に『置いて』ありました。登録は任意です、と言いながら、痛みスコアは部署ごとに集計されて、ランキングになった。……あの状況で、新人が、断れますか」
一度だけ、声が揺れた。揺れたのは、恐怖ではなかった。
「私、ずっと、断れない社員でした。だから、分かるんです。ああいうサンプルは、断れない人の机にだけ、積み上がっていくんです。断れる人は、最初から飲みません。つまりあのプログラムは、この会社でいちばん真面目で、いちばん立場の弱い人から順番に、実験台にしていく仕組みなんです。……私は、それを見過ごすほうが、会社への妨害だと思います」
誰も、すぐには続きを言わなかった。
記録係のペンが、止まっていた。
そのとき、ノックの音がして、返事を待たずに扉が開いた。
「悪い。同席させてもらう」
黒岩だった。彼は勝手に壁際の椅子を引き、どかりと座った。
「黒岩さん。これは経営企画の面談で」
「その面談対象は、うちの部の要だ。上司が同席して何が悪い」
黒岩は、書類の束を、長机に滑らせた。
「金曜の夜に作った。うちの部の、進行遅延と品質事故の一覧だ。プログラム導入の前後で比べてある。小林の言った数字の、裏付けになる。……言っとくがな、俺は昔、こいつに仕事を積めるだけ積んだ男だ。断らないから、積んだ。それで一度、うちの案件から倒れかけの人間を出した」
永井のことだ、と美咲は気づいた。
「だからこれは、俺の落とし前でもある。断れないやつに積み続けたら何が起きるか、俺は現場で見た。あの白い箱は、俺が昔やってたことと、同じことを、会社ぐるみでやってるだけだ」
部長と人事課長が、顔を見合わせた。面談は、事実確認という名の説得のはずだった。折れるはずの相手は折れず、増えるはずのない味方が、増えていく。
「……本件は、預かりとします」
部長がそう言いかけたとき、人事課長のスマホが震えた。画面を見た彼の顔色が、変わった。
「部長。……役員会の議題が、追加されたそうです。明後日の。『ウェルネス・サポート・プログラムの安全性について』。提出者は……ヘリオス産業医クリニック、郷原医師」
同じ頃、透はヘリオスの一室にいた。
郷原は、パソコンの画面に、症例のスライドを並べていた。処方記録、増量後の訴え、改良版の有害事象一覧。医学の言葉で組み上げられた、動かない数字の列だった。
「役員会には、私が出ます。あなたではなく」
郷原は、画面を見たまま言った。
「あなたが出せば、鍼師と製薬会社の縄張り争いに見える。私が出せば、産業医が医学的懸念を上申した、になる。同じ中身でも、通り方が違う。……数字の使い方は、私のほうが、あなたより上手い」
「感謝します、郷原さん」
「感謝される筋合いはない。これは私の職務で、私の……」
郷原は、少しだけ言葉を探した。
「……意地です」
伝統の技法、あるいは意地。透は、白石の言葉を思い出していた。意地の在り処は、技法ではなく、目の前の一人。この人の意地は、ずいぶん遠回りをして、ようやくそこに帰ってきたのだ。
役員会前日の夕方、来客受付に、白瀬が現れた。
アポイントは、明日のはずだった。彼はロビーで、ちょうど帰るところだった透と美咲に行き合うと、いつもの完璧な微笑みで、会釈をした。
「明日は、ずいぶんにぎやかな議題が並んだようですね。御社の産業医の先生まで、ご登壇とか」
「ええ。にぎやかになりますよ」
「結構。……柊木さん。私はね、脅しも工作も、しないんです。そういうのは、美しくない」
白瀬は、ロビーの照明を映さない、静かな目で言った。
「私が持っていくのは、数字だけです。全社平均の改善データ。生産性の推移。他社での導入実績。どれも、嘘のない、きれいな数字だ。……あなた方が持ってくるのは、涙の話でしょう。誰かが泣いた、誰かが倒れた、という。役員会という場所で、数字と涙の、どちらが強いか」
微笑みが、ほんのわずかに、深くなった。
「見せていただきましょう。明日、10時に」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「ああいうサンプルは、断れない人の机にだけ、積み上がっていくんです」。この一言を美咲に言わせるために、32話かかりました。そして黒岩さんの「俺の落とし前」と、郷原先生の「意地」。かつて壁だった人たちが、そのままの性格で、味方になっていく。ざまぁより、こういう転び方のほうが、私は好きです。
明日、役員会。数字と、涙と言われたものの、どちらが強いのか。
次回、第33話「霧の晴れる日」。第1クール、最大の山場です。
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