第30話 構造の名前
同意書の控えと、納品伝票の写し。ヘリオスを外した直販の決裁書。入江や葵たちの、施術記録。
夜のブースの机に、二人で集めてきたものを並べると、絵の全体が、ようやく見えてきた。
「整理しますね」
美咲が、一枚ずつ、指で押さえていく。
「テーミス製薬は、発売前の改良版ゼロペインを『サプリ』の名前で配って、社員の継続データを取っている。実質、費用のかからない、大規模な実験です。会社側の窓口は経営企画部。会社は健康経営の認定が欲しくて、それには『痛みスコア改善』の数字が使える。おまけに、休む人が減って、残業も回る。……テーミスはデータを、会社は数字を。両方が得をして」
「削られているのは、社員の身体だけ」
透が、静かに引き取った。
「じゃあ、悪いのは誰なんでしょう。白瀬さん? プログラムを通した経営企画? 判こを押した役員? それとも……断れずに登録した、私たち?」
美咲の問いに、透は、すぐには答えなかった。
悪人を一人選べるなら、話は簡単だった。けれど、この絵には、分かりやすい悪人が、どこにもいない。白瀬は製品を良くしようとし、会社は認定を取ろうとし、社員は迷惑をかけまいとした。全員が、それぞれの持ち場で「正しく」振る舞った結果として、フロアが焦げの海になっていく。それが、この病の、いちばん深いところだった。
「明日、専務に時間をもらってあります」
美咲が言った。
「役員会議のあと、先生のことを気にかけてくれてますから。話は、聞いてもらえると思います」
専務室は、簡素な部屋だった。
白髪の専務は、二人の持ってきた資料を、老眼鏡をかけて、時間をかけて読んだ。読み終えてから、深く、椅子にもたれた。
「……率直に言おう。私も、あのプログラムには判を押した一人だ。健康経営の認定は、採用にも株価にも効く。痛みスコアの改善グラフは、役員会で、実に見栄えがした」
「専務。ひとつ、伺ってもいいですか」
透は、静かに切り出した。
「この会社では今、頭痛を訴える人が減りました。不眠の相談も減った。休憩室は空で、残業は増えて、それでも誰も、疲れた顔をしません。若い社員は、指を切っても気づかない。……ばらばらの現象に見えますか」
「…………」
「俺は、産業鍼灸師として、この半年、この会社の身体に触れてきました。だから、断言できます。この会社の頭痛も、不眠も、無感動も、痛みスコアのゼロも……根は、一つです」
根は、一つ。
美咲は、その言葉を、初めて聞いた日のことを思い出していた。頭痛と、食いしばりと、喉のつかえ。ばらばらだと思っていた自分の症状を、初対面の鍼灸師が、一本の根に束ねてみせた日のことを。あのとき一人の患者に向けられた見立てが、いま、会社という一人の患者に向けられていた。
「断れない、という根です」
透は、続けた。
「仕事を断れない。配られた薬を断れない。数字を求められて断れない。……美咲さんも、入江さんも、堀内さんも、そして専務、おそらくあなたも。誰もが、どこかで断れないまま、この流れに乗っている。テーミスは、その『断れなさ』の上に、実験台を組み立てたんです。悪意の犯人を探しても、たぶん、見つかりません。これは構造です。ですが、構造には悪意がなくても、身体は、確実に壊れていきます」
専務は、長いこと、黙っていた。それから、老眼鏡を外して、目頭を揉んだ。
「……柊木さん。あんたの言うことは、たぶん、正しい。だがな、役員会で『構造が悪い』は、通らんのだ。数字で作られた決定を覆すには、数字がいる。改良版とやらの副作用の、動かん証拠。それを持ってきなさい。そうしたら、私が、議題に載せる」
数字には、数字を。
重い宿題だったが、道筋は、ついた。
その晩、ブースの戸を、意外な人物が叩いた。
郷原だった。
彼は、無言のまま、分厚い封筒を机に置いた。中身は、ヘリオス産業医クリニックの内部資料だった。ゼロペイン処方者の、経過記録の写し。増量後の不調の訴え。動悸、無気力、感覚の鈍麻。そして、テーミスから届いた「改良版」の技術資料と、そこに小さく記された、治験段階での有害事象の一覧。
「……これは」
「私は、産業医だ」
郷原は、透と目を合わせずに言った。
「薬で人を最短で戻すのが、私の流儀だ。それは今も、変わらん。だがな、鍼師どの。薬というのは、医者が診て、量を計って、出すものだ。医師を外して、サプリの箱に詰めて、ばら撒くものではない。……あれは、医療ですらない」
病を診ずして病人を診よ、とまでは、この男は言わなかった。言わなかったけれど、その封筒が、彼なりの答えだった。数字を信じてきた男が、自分の数字の使い道を、初めて自分で選んだのだ。
「使い方は、あなた方に任せます。私は、忙しい」
いつもの捨て台詞を残して、郷原は帰っていった。
深夜、ひとりになったブースで、透は、桐の小箱を開けた。
形見の鍼を、手のひらにのせる。
思い出すのは、あの雨の日のことだ。報せを受けて、電車を乗り継いで、駆けつけた夜。治療院の廊下には、消毒液の匂いと、白い蛍光灯の光だけがあった。間に合わなかった。畳の上には、その日の最後まで診療を続けた跡が、そのまま残っていた。……あの夜のことは、まだ、これ以上思い出すと、手が震える。
透は、小箱を、静かに閉じた。
翌朝、資料を検めた美咲は、顔を上げて、言った。
「先生。副作用の証拠、郷原先生の記録と、こっちの施術記録を突き合わせれば、作れます。でも、それだけじゃ足りません。データの向こうにいるのが人間だって、役員会に思い出させないと」
彼女は、フロアのほうを、まっすぐに指差した。
「全員、って言いましたよね、先生。この会社の根は一つだって。なら……全員、取り戻しましょう」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第10章「組織の深淵」、完結です。犯人は、いませんでした。全員がそれぞれ「正しく」振る舞った結果として組み上がってしまう構造。それがこの物語の、いちばん深い敵です。でも、構造に立ち向かう方法も、実はずっと前から出ていました。断れない根っこを、一人ずつ、ほどいていくこと。
郷原先生の封筒には、痺れました。ああいう形でしか優しくなれない人が、私は大好きです。
次章、第11章「全社員調律オペ」。いよいよ、第1クールのクライマックスです。
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